今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
清華美術大学三年次の安寿は、油絵学科の小柴ゼミナールに所属している。
小柴は一度定年退職して再雇用された高齢の教授で、目立たない小柄な風貌をしている。ふわふわした真っ白な白髪頭をこくりこくりさせて、よく油絵学科のアトリエの窓際の陽だまりに置いた椅子に深く腰掛けて居眠りをしている。その姿を見た安寿はずいぶん前に亡くなった祖父の姿を思い出して心が和んだ。小柴は物忘れが進んでいるらしく、固有名詞がなかなか出てこない。ゼミの講義では「あれが、これして、それになった」と、こそあど言葉を多用してゼミ生たちの失笑を買っている。そんな小柴教授だが、若い頃はフランスに留学して派手に浮名を流していたらしい。当然のことだが、ある意味で伝説のようなその噂の真偽は不明である。
大学でのランチタイムは大翔と容と三人で過ごしている。四年次に進級してから容はほとんど大学に顔を出さないが、日本画の卒業制作を担当教授の黒川の指導下で着々と進めているようだ。
実質、大学では大翔と二人きりだ。工芸デザイン学科の大翔は外部から招かれた企業デザイナーの講義を熱心に受講している。そのレポートを安寿は興味深く読ませてもらっている。莉子が進路変更してまで大切に思ってくれている実家の家業に、大翔が今までずっと避けていた目を本気で向けようとしていることを安寿は感じる。
莉子と大翔は、莉子が大翔の実家に引っ越した当日に両家の親には内緒で婚姻届を提出していた。生まれ育った家を出る最後の日まで、莉子の父が「絶対に学生結婚は許さない。職に就いてからだ」と頑固に言い張ったからだ。
今、大翔の左手の薬指には真新しい結婚指輪が光っている。入学当初、大翔は大学のラグビー部に入部を強く勧誘されていたが、それを断っていた。大翔は大学の講義の合間を縫ってアルバイトを何個も掛け持ちしている。体力のある大翔ならではの早朝の魚市場の出荷の手伝いから夜の引越し業者のアシスタントまで、そのほとんどが高給の肉体労働だ。もちろん莉子との結婚資金を貯めるためだ。親の援助を受けずにふたりで買い求めた結婚指輪が安寿の目にはまぶしく映った。
大翔は安寿の目の前で自分で握った特大サイズのおにぎりをおいしそうに食べている。安寿も自分でつくった弁当を食べながら大翔ににっこりと微笑んだ。安寿の可愛らしい笑顔に胸をどきっとさせながらも大翔は莉子にきつく言い渡された言葉を思い起こしていた。
「大翔くん、安寿ちゃんをよろしくね。安寿ちゃんをよく見張っていてよ。安寿ちゃんが岸さん以外の男性に言い寄られないように!」
大翔は安寿に気づかれないようにそっとため息をついた。
(きっと安寿さんにも莉子は同じことを言ったんだろうな……)
小柴は一度定年退職して再雇用された高齢の教授で、目立たない小柄な風貌をしている。ふわふわした真っ白な白髪頭をこくりこくりさせて、よく油絵学科のアトリエの窓際の陽だまりに置いた椅子に深く腰掛けて居眠りをしている。その姿を見た安寿はずいぶん前に亡くなった祖父の姿を思い出して心が和んだ。小柴は物忘れが進んでいるらしく、固有名詞がなかなか出てこない。ゼミの講義では「あれが、これして、それになった」と、こそあど言葉を多用してゼミ生たちの失笑を買っている。そんな小柴教授だが、若い頃はフランスに留学して派手に浮名を流していたらしい。当然のことだが、ある意味で伝説のようなその噂の真偽は不明である。
大学でのランチタイムは大翔と容と三人で過ごしている。四年次に進級してから容はほとんど大学に顔を出さないが、日本画の卒業制作を担当教授の黒川の指導下で着々と進めているようだ。
実質、大学では大翔と二人きりだ。工芸デザイン学科の大翔は外部から招かれた企業デザイナーの講義を熱心に受講している。そのレポートを安寿は興味深く読ませてもらっている。莉子が進路変更してまで大切に思ってくれている実家の家業に、大翔が今までずっと避けていた目を本気で向けようとしていることを安寿は感じる。
莉子と大翔は、莉子が大翔の実家に引っ越した当日に両家の親には内緒で婚姻届を提出していた。生まれ育った家を出る最後の日まで、莉子の父が「絶対に学生結婚は許さない。職に就いてからだ」と頑固に言い張ったからだ。
今、大翔の左手の薬指には真新しい結婚指輪が光っている。入学当初、大翔は大学のラグビー部に入部を強く勧誘されていたが、それを断っていた。大翔は大学の講義の合間を縫ってアルバイトを何個も掛け持ちしている。体力のある大翔ならではの早朝の魚市場の出荷の手伝いから夜の引越し業者のアシスタントまで、そのほとんどが高給の肉体労働だ。もちろん莉子との結婚資金を貯めるためだ。親の援助を受けずにふたりで買い求めた結婚指輪が安寿の目にはまぶしく映った。
大翔は安寿の目の前で自分で握った特大サイズのおにぎりをおいしそうに食べている。安寿も自分でつくった弁当を食べながら大翔ににっこりと微笑んだ。安寿の可愛らしい笑顔に胸をどきっとさせながらも大翔は莉子にきつく言い渡された言葉を思い起こしていた。
「大翔くん、安寿ちゃんをよろしくね。安寿ちゃんをよく見張っていてよ。安寿ちゃんが岸さん以外の男性に言い寄られないように!」
大翔は安寿に気づかれないようにそっとため息をついた。
(きっと安寿さんにも莉子は同じことを言ったんだろうな……)