今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
毎週の土曜日に安寿はいつものように岸の前に座って画家のモデルになっている。一月に赤紅色の振袖をまとった安寿の絵を手に入れた顧客は、すぐにまた華鶴に安寿をモデルにした絵を依頼してきた。今度はあるテーマを要望している。「ピュアな愛に満ちた天使像」と。その抽象的で難解なテーマに岸は半年以上苦しんでいた。岸は写実画家だ。目の前の光景をただ忠実に描くことしかできない。この半年以上、国内外の顧客たちから依頼された風景画を描きながら、土曜日の午前中だけ安寿の姿をデッサンしている。岸の体調は落ち着いているが、目立って外出が少なくなった。毎朝、岸家の庭の花壇やハーブガーデンの世話を欠かさないのが唯一の救いだ。岸の身体が心配な安寿は、在宅している時はなるべく岸の庭仕事を手伝うようにしていた。
三年次になっても安寿は日曜日と大学の講義がない月曜日と水曜日の午後と金曜日の夜の合計週四日間、引き続き黒川家に襖絵を描きに行っている。帰りは黒川が運転する車で岸家の近くまで送ってもらうようになっていた。力を出しきって疲れ果てた安寿はいつも後部座席で眠り込んでしまっていた。それがどんなに無防備な状態なのか安寿は自覚していたが、一年以上にわたる大きな緊張を強いられる襖絵の制作に常に疲労感や倦怠感を感じていた。そろそろ具体的に大学卒業後の身の振り方を考えなくてはならない。だが、大学の課題と黒川家の襖絵の制作を両立することで手いっぱいの状態だ。
航志朗の二十九歳の誕生日と三回目の結婚記念日を一緒に過ごしてから、もう二か月が過ぎた。
七月に入り梅雨が明けた直後、例年にない猛暑がやってきた。華鶴に買ってもらった麻の日傘がまったく役に立たないほどの強烈な日射しが連日降り注いでいる。もうすぐ大学の夏季休暇に入る。航志朗はフランスが長い夏のバカンスシーズンに入ったら長期休暇を取って帰って来ると言っていたが、急な他の仕事が入ったらしく次回の航志朗の帰国は九月になりそうだ。
実のところ、安寿はほっとしていた。六月に渡辺一家はドイツに向けて出発した。岸も毎年恒例のスケッチ旅行に出かけて家をしばらく留守にする。七月と八月の一か月半の間、黒川家の襖絵の制作に集中できる。安寿は航志朗が帰国するまでに、一気に襖絵を仕上げる決意を固めていた。
三年次になっても安寿は日曜日と大学の講義がない月曜日と水曜日の午後と金曜日の夜の合計週四日間、引き続き黒川家に襖絵を描きに行っている。帰りは黒川が運転する車で岸家の近くまで送ってもらうようになっていた。力を出しきって疲れ果てた安寿はいつも後部座席で眠り込んでしまっていた。それがどんなに無防備な状態なのか安寿は自覚していたが、一年以上にわたる大きな緊張を強いられる襖絵の制作に常に疲労感や倦怠感を感じていた。そろそろ具体的に大学卒業後の身の振り方を考えなくてはならない。だが、大学の課題と黒川家の襖絵の制作を両立することで手いっぱいの状態だ。
航志朗の二十九歳の誕生日と三回目の結婚記念日を一緒に過ごしてから、もう二か月が過ぎた。
七月に入り梅雨が明けた直後、例年にない猛暑がやってきた。華鶴に買ってもらった麻の日傘がまったく役に立たないほどの強烈な日射しが連日降り注いでいる。もうすぐ大学の夏季休暇に入る。航志朗はフランスが長い夏のバカンスシーズンに入ったら長期休暇を取って帰って来ると言っていたが、急な他の仕事が入ったらしく次回の航志朗の帰国は九月になりそうだ。
実のところ、安寿はほっとしていた。六月に渡辺一家はドイツに向けて出発した。岸も毎年恒例のスケッチ旅行に出かけて家をしばらく留守にする。七月と八月の一か月半の間、黒川家の襖絵の制作に集中できる。安寿は航志朗が帰国するまでに、一気に襖絵を仕上げる決意を固めていた。