今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 清華美術大学の前期の最終日は金曜日だった。その前日に京都の大学が夏季休暇に入った莉子は、その日、大翔にも安寿にも内緒で東京に戻って来た。

 早起きした莉子は左京区の出町柳にある餅屋の大行列に並んで豆大福を買った。安寿と実家の家族への京都の手土産だ。合鍵で大翔のマンションに入ってスーツケースを置くと、いてもたってもいられずに莉子は清華美術大学に向かった。

 大学の最寄り駅に着いたのは午後一時すぎだった。電車を降りてふと反対側のホームを見ると、偶然にも安寿の姿がそこにあった。久しぶりに会えた喜びで胸がいっぱいになった莉子はすぐに安寿に向かって大きく手を振ったが、安寿は気がつかない。それに安寿は岸家の最寄り駅に向かう電車が来るホームとは反対側に立っている。首を傾けて莉子は不思議に思った。そして、安寿に悪いとは思いつつも莉子は走って安寿のいる反対側のホームに行って、安寿の後に同じ電車に乗りこっそりと後をつけた。

 ずっと立ったままで安寿は電車の窓の外を眺めていた。莉子が知っている安寿とはまったくの別人のような気がしてしまうほど冷たく硬い表情をしている。それになんだかとても疲れている様子だ。莉子は胸のなかがもやもやとしてきた。

 安寿は東京駅で横須賀線に乗り換えた。迷う様子は全然ない。通い慣れたルートを何も考えずにたどるような足取りだ。

 (安寿ちゃん、これからどこへ行くの……)

 東京駅までついて来てしまった莉子は迷いに迷ったが、また安寿の後に続いて同じ電車に乗った。比較的空いた車内で座席に座った安寿はうとうとと居眠りをし始めた。莉子は後ろめたい気持ちにさいなまれた。途中の停車駅で何度も降りてしまおうと思ったが、どうしても降りられなかった。東京駅を出発してから一時間後に鎌倉駅に到着した。目を開けた安寿は立ち上がって電車を降りた。

 (……鎌倉駅?)

 顔を曇らせて莉子は不審に思った。安寿から鎌倉の話を聞いたことはない。そのまま安寿はまっすぐに改札口に向かった。莉子も後からついて行った。改札口の前で見覚えのある人物が安寿を出迎えた。それを見た莉子は心から安堵した。

 (岸さんだ! なーんだ、安寿ちゃん、岸さんと待ち合わせをしていたんだ。鎌倉でデートかな……、って!)

 莉子は思わず口に出してしまった。

 「ええっ、どうしてあのひとがここにいるの!」

 安寿を出迎えたのは航志朗ではなく、あの黒川だった。黒川は着物姿ではなくカジュアルに長袖のシャツを着てチノパンを穿いている。

 安寿は黒川の背中について行った。あわてて莉子も改札口を出てふたりの後を追った。黒い日傘をさした安寿と黒川は駅前通りを少し歩いて左に曲がった。莉子が続いて左に曲がると大きなホテルが見えた。莉子の目の前で、安寿と黒川はそのホテルに入って行った。

 莉子の視界が涙で曇った。

 「うそでしょ、安寿ちゃん! あんなひとと、どうして……」

 その時、莉子のスマートフォンが鳴った。大翔からだった。莉子は通話に出たがすすり泣くだけで何も話せない。

 『……莉子? いったいどうしたんだ!』

 大翔の怒鳴り声が莉子の耳の中に響き渡った。

 真っ赤になって莉子は叫んだ。

 「大翔くん! 安寿ちゃんが、……安寿ちゃんが!」

 莉子はその場に泣きくずれた。京都から安寿のために大事に抱えて持ってきた豆大福が、莉子の手から熱く照らされたアスファルトに落ちた。

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