今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
タクシーの中でミネラルウォーターを飲んでから息を整える。やっと三か月半ぶりに安寿に再会できる喜びが身体じゅうにあふれ出てきて、航志朗の心を甘く満たした。
(そうだ、夏季休暇に入ったんだっけ。今年の夏は安寿と一緒にどこで過ごすか、全然考えていなかったな……)
車の窓の外を見ると、マンションの建物が見えてきた。航志朗の胸は高鳴りはじめた。
航志朗はマンションに到着した。足取りも軽くスーツケースを引いた航志朗は、玄関のインターホンを鳴らした。乱れた前髪を手ぐしで整える。ドアが開いたら画筆を手に握った安寿が飛びついてくるだろう。
だが、いくら待っても応答はなかった。再び航志朗に真っ黒な恐怖が襲ってきた。急激に血の気が引いていくのを感じる。ドクンドクンと胸の鼓動が早く打つ。どうしても震えてしまう手でなんとか玄関ドアの鍵を開けて中に入ると、航志朗は大声で叫んだ。
「安寿! どこにいるんだ!」
湿気のこもった蒸し暑いマンションの中は真っ暗だ。リビングルームに足を踏み入れて慎重にスタンドライトを点灯する。いきなり目に飛び込んできた光景に航志朗は息を呑んだ。
ソファの上には脱ぎ捨てられた安寿の服やインナーが散らばっている。食品が腐ったような異臭が鼻についた。ダイニングテーブルの上を見ると、いくつものコンビニエンスストアのレジ袋が無造作に置かれていて、包装フィルムに包まれたおにぎりや菓子パンが食べかけのまま転がっていた。おにぎりのフィルムに貼られたシールにプリントされた消費期限は、五日前の日付になっている。窓際に置かれたイーゼルにはキャンバスがのせられているが、新品のままで何も描かれていない。
(いったいどうしたんだ、安寿……)
航志朗は頭をかきむしった。急に航志朗の頭のなかに激しい怒りがこみあげてきた。部屋の暗がりに薄ら笑いを浮かべる女の顔が浮かんでくる。走って航志朗はマンションを出て行った。混み合った地下鉄に乗って銀座に向かう。地上に駆け上がって暑苦しい空気に身をさらすとすぐに大量の汗が吹き出てきた。陽が落ちてもすみずみまで明るい銀座の表通りは休暇中の人びとでにぎわっていた。航志朗は走り出した。デパートの紙袋を抱えた人びとをかき分けて、ひっそりとした裏通りに入った。
黒川画廊の前に着いたのは午後八時すぎだった。五階建ての建物を見上げると、四階に灯りがともっている。一階のエントランスのガラスのドアを押すと、それはあっけなく開いた。航志朗は画廊の中に入って呼吸を整えながら奥の階段を一段一段登って行った。激しい怒りが脳天まで達している。両肩を立て続けに上下させてこぶしを握りしめた。四階にたどり着くと、デスクの前に座った華鶴がノートパソコンに向かっているのが目に入った。華鶴は顔をゆっくりと上げて航志朗を見て言った。それはまったく驚きもしない淡白な声だった。
「あら、航志朗さん」
航志朗は低く響き渡るような声でうめくように言った。
「……安寿はどこだ?」
華鶴は目を細めた。笑ってはいないが明らかに見下した目をしている。
「あなたは知っているんだろう? 今、安寿がいるところを!」
声を荒げた航志朗は華鶴をにらみつけた。
軽くため息をついた華鶴は、ダイヤ模様のキルティングのショルダーバッグに手を伸ばし、ゴールドのストラップを肩に掛けて言った。
「ついて来る?」
華鶴の後を航志朗はついて行った。画廊の裏手にある駐車場に停めてある車に華鶴は乗り込んでエンジンを掛けた。助手席のドアを開けて華鶴が言った。
「乗ったら?」
街灯に照らされたカーマインレッドの華鶴の車の助手席に航志朗は座った。ドアを閉めると嗅覚をいやらしくくすぐるような香りがしてきて航志朗は顔をしかめた。覚えのある香りだ。羽田空港のトランジットホテルの部屋で安寿を抱きしめた時にかいだことを思い出した。同時に安寿の肌の温もりもいやおうなく思い出す。言いようのない不安感に押しつぶされて航志朗は頭を抱えた。華鶴は航志朗に視線を向けると静かに言った。
「シートベルトを締めてくださらない? ここは日本よ、航志朗さん」
顔を上げた航志朗がシートベルトに手を伸ばしたとたんに車が急発進した。思わず航志朗は苦笑を浮かべた。車は首都高に入って南へ向かう。どこに向かっているのかはじゅうぶん過ぎるほどわかっているが、あえて航志朗は華鶴に尋ねた。
「……どこへ行くんですか?」
前を向いたままでハンドルを握った華鶴が冷ややかに答えた。
「あなたが想定しているところに決まっているでしょう」
車の窓の外を航志朗は眺めた。高速道路沿いに乱立する派手なネオンライトをともしたラブホテルが目に入る。馬鹿げているとはわかっているが、どうしても安寿が黒川とベッドの上で抱き合っている姿を想像してしまう。黒川の背中に回された安寿の左手の薬指にはつけられているはずの結婚指輪が見当たらない。航志朗は頭を振ってその絶対にあってはならない光景を払い落した。
(そうだ、夏季休暇に入ったんだっけ。今年の夏は安寿と一緒にどこで過ごすか、全然考えていなかったな……)
車の窓の外を見ると、マンションの建物が見えてきた。航志朗の胸は高鳴りはじめた。
航志朗はマンションに到着した。足取りも軽くスーツケースを引いた航志朗は、玄関のインターホンを鳴らした。乱れた前髪を手ぐしで整える。ドアが開いたら画筆を手に握った安寿が飛びついてくるだろう。
だが、いくら待っても応答はなかった。再び航志朗に真っ黒な恐怖が襲ってきた。急激に血の気が引いていくのを感じる。ドクンドクンと胸の鼓動が早く打つ。どうしても震えてしまう手でなんとか玄関ドアの鍵を開けて中に入ると、航志朗は大声で叫んだ。
「安寿! どこにいるんだ!」
湿気のこもった蒸し暑いマンションの中は真っ暗だ。リビングルームに足を踏み入れて慎重にスタンドライトを点灯する。いきなり目に飛び込んできた光景に航志朗は息を呑んだ。
ソファの上には脱ぎ捨てられた安寿の服やインナーが散らばっている。食品が腐ったような異臭が鼻についた。ダイニングテーブルの上を見ると、いくつものコンビニエンスストアのレジ袋が無造作に置かれていて、包装フィルムに包まれたおにぎりや菓子パンが食べかけのまま転がっていた。おにぎりのフィルムに貼られたシールにプリントされた消費期限は、五日前の日付になっている。窓際に置かれたイーゼルにはキャンバスがのせられているが、新品のままで何も描かれていない。
(いったいどうしたんだ、安寿……)
航志朗は頭をかきむしった。急に航志朗の頭のなかに激しい怒りがこみあげてきた。部屋の暗がりに薄ら笑いを浮かべる女の顔が浮かんでくる。走って航志朗はマンションを出て行った。混み合った地下鉄に乗って銀座に向かう。地上に駆け上がって暑苦しい空気に身をさらすとすぐに大量の汗が吹き出てきた。陽が落ちてもすみずみまで明るい銀座の表通りは休暇中の人びとでにぎわっていた。航志朗は走り出した。デパートの紙袋を抱えた人びとをかき分けて、ひっそりとした裏通りに入った。
黒川画廊の前に着いたのは午後八時すぎだった。五階建ての建物を見上げると、四階に灯りがともっている。一階のエントランスのガラスのドアを押すと、それはあっけなく開いた。航志朗は画廊の中に入って呼吸を整えながら奥の階段を一段一段登って行った。激しい怒りが脳天まで達している。両肩を立て続けに上下させてこぶしを握りしめた。四階にたどり着くと、デスクの前に座った華鶴がノートパソコンに向かっているのが目に入った。華鶴は顔をゆっくりと上げて航志朗を見て言った。それはまったく驚きもしない淡白な声だった。
「あら、航志朗さん」
航志朗は低く響き渡るような声でうめくように言った。
「……安寿はどこだ?」
華鶴は目を細めた。笑ってはいないが明らかに見下した目をしている。
「あなたは知っているんだろう? 今、安寿がいるところを!」
声を荒げた航志朗は華鶴をにらみつけた。
軽くため息をついた華鶴は、ダイヤ模様のキルティングのショルダーバッグに手を伸ばし、ゴールドのストラップを肩に掛けて言った。
「ついて来る?」
華鶴の後を航志朗はついて行った。画廊の裏手にある駐車場に停めてある車に華鶴は乗り込んでエンジンを掛けた。助手席のドアを開けて華鶴が言った。
「乗ったら?」
街灯に照らされたカーマインレッドの華鶴の車の助手席に航志朗は座った。ドアを閉めると嗅覚をいやらしくくすぐるような香りがしてきて航志朗は顔をしかめた。覚えのある香りだ。羽田空港のトランジットホテルの部屋で安寿を抱きしめた時にかいだことを思い出した。同時に安寿の肌の温もりもいやおうなく思い出す。言いようのない不安感に押しつぶされて航志朗は頭を抱えた。華鶴は航志朗に視線を向けると静かに言った。
「シートベルトを締めてくださらない? ここは日本よ、航志朗さん」
顔を上げた航志朗がシートベルトに手を伸ばしたとたんに車が急発進した。思わず航志朗は苦笑を浮かべた。車は首都高に入って南へ向かう。どこに向かっているのかはじゅうぶん過ぎるほどわかっているが、あえて航志朗は華鶴に尋ねた。
「……どこへ行くんですか?」
前を向いたままでハンドルを握った華鶴が冷ややかに答えた。
「あなたが想定しているところに決まっているでしょう」
車の窓の外を航志朗は眺めた。高速道路沿いに乱立する派手なネオンライトをともしたラブホテルが目に入る。馬鹿げているとはわかっているが、どうしても安寿が黒川とベッドの上で抱き合っている姿を想像してしまう。黒川の背中に回された安寿の左手の薬指にはつけられているはずの結婚指輪が見当たらない。航志朗は頭を振ってその絶対にあってはならない光景を払い落した。