今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その時、安寿は黒川家のかぐわしい香りのする檜風呂に浸かっていた。一週間前から航志朗のマンションに帰っていない。大きなガラス窓の向こうには竹林が見える。安寿は自分の両手を湯船から出してじっと見つめた。伸びた爪のあいだには深緑色の線が走っている。左手の薬指には見知らぬ指輪がはめられている。安寿は組木の天井を見上げた。白い湯気が立っていて、まるで雲のようだ。きっとあの雲の向こう側には、はてしなく青い空が広がっている。その空の彼方に誰かいる。

 安寿は声を出してつぶやいた。

 「……そのひとって、誰だっけ?」

 安寿の瞳は真っ黒だ。浴室の外から誰かの声が聞こえた。誰かが安寿(わたし)の名前を呼んでいる。とても優しい声だ。「着替えをここに置いておくよ」とその声は言った。安寿は風呂からあがった。用意されてあったふかふかのタオルで髪と身体を拭いてから、真新しいインナーを穿いた。その上にグレーのパジャマを着る。袖も裾も長すぎるし、ウエストはぶかぶかだ。袖をまくってからズボンのゴムをゴム通し口から引っぱって短く結び、かがんでズボンの裾を折った。

 裸足のままで安寿は長い長い廊下を歩いた。外は真っ暗だ。ざわざわと樹々の葉が擦れる音がする。遠い昔にこの音を聞いたことがあるような気がするが、全然思い出せない。安寿は一番奥の広間に入った。広間のまわりには深い深い森が広がっている。よく見ると、その森はところどころにすき間がある。私はそのすき間を埋めなければならない。──彼のために。
 
 また安寿はつぶやいた。

 「……彼って、誰?」

 広間の中には浴衣を着流した男がうちわで身体をあおぎながらゆったりと座っている。微笑みを浮かべた男は安寿に手を伸ばしてまだ濡れている髪をなでた。その指は細くてしなやかだ。その気持ちよさに目を閉じて、安寿はその男に寄りかかった。男は優しく安寿の肩に腕を回して引き寄せた。

 男は安寿の耳元で甘くささやいた。

 「そろそろいいだろう、安寿」

 何が「いい」のかわからない。安寿は首をかしげた。男は安寿の身体を支えながらゆっくりと安寿を畳の上に押し倒した。パジャマのボタンを上から外し始める。首筋に男の生温かい唇が触れた。ふと安寿は横を見た。すぐそばに黒革のショルダーバッグが置いてある。ずっとその中に大切なものが入っていることを安寿はふと思い出した。

 その時、突然、大きな叫び声が聞こえた。

 「安寿!」

 ──彼の声だ。とっさに安寿は男の腕から抜け出して黒革のショルダーバッグを抱きかかえた。すぐにファスナーを開いて中から墨汁の入ったボトルを取り出す。

 男は冷たい笑みを浮かべて言った。

 「どうしたんだ? せっかくいいところなのに。さあ、ここにおいで、安寿」

 男は両手を広げて近づいて来た。

 胸を隠した安寿は立ち上がって叫んだ。

 「私に近寄らないで! ……皓貴さん!」

 一瞬、黒川の動きが止まった。

 「正気に戻ったのか、安寿。だが、どんなに叫んでも無駄だ。ここには誰もいない。君の夫だって、遠く離れた空の彼方にいるんだろう?」

 墨汁のボトルを黒川の目の前に突きつけて安寿は言った。

 「これ以上、私に近づいたら、あなたの襖絵にこの墨汁をかけます」

 くすくすとさも可笑しそうに笑って黒川は言った。

 「君は面白い冗談を言うな。そんなこと、君にできるわけがないだろう。一年以上もかけて、身も心も削って描き続けた自分の絵に」

 安寿は全身に力を込めて大声で叫んだ。

 「できます! 私は自分の描いた絵に執着がないから!」

 「ふうん。でも何回も言っているけれど、航志朗くんがあの森を取り戻すチャンスを失うよ?」

 航志朗の名前を聞いて、一瞬、安寿はたじろいだ。そのすきをついて黒川は安寿を抱きすくめた。安寿の手から墨汁のボトルが畳の上に転がり落ちた。また安寿は悲鳴をあげるように叫んだ。

 「やめて、私に触らないで!」

 黒川は安寿を乱暴に押し倒した。強い力で両手首を押さえつけられる。安寿は思いきり顔をしかめた。安寿のはだけた胸の上で黒川は冷ややかに言った。

 「ねえ、安寿。君は二千億円もの価値がある襖絵を描けるって、本気で思ったのかい? 笑えるよね……。君は知らないの? 美術品のオークションにおいて史上最高額で落札されたダ・ヴィンチの絵画は、五百億円だよ。君があのダ・ヴィンチの絵画の四倍もの価値がある絵を描けるわけがないだろう。愚かすぎて、もはや哀れだな、君は」

 安寿の抵抗する力が急速に弱まった。黒川は無理やり安寿が着たパジャマをはぎ取ると、浴衣の上半身を脱いで安寿にのしかかった。悲鳴をあげた安寿は黒川の身体の下から抜け出そうともがいたが強い力で押さえつけられていて抜け出せない。黒川が安寿を見下ろして冷たく笑って言った。

 「きれいな身体をしているじゃないか、安寿。君は何も知らない無垢な天使のようだ」

 安寿は必死に手を伸ばした。指の先が墨汁のボトルに触れた。なんとかボトルを手に握った安寿は黒川の背中に腕を回すふりをして墨汁のキャップを開けた。黒川は愉しそうに笑って言った。

 「やっとその気になったのか、安寿?」

 安寿は黒川の目をまっすぐに見つめて静かに言った。

 「あなたは真っ黒な悪魔ですね、……皓貴さん」

 安寿は墨汁のボトルを傾けて、真っ黒な液体を黒川の背中に流した。黒川の背中を伝って安寿の胸にも墨汁がぽたぽたとしたたり落ちた。顔を歪めて背中をそらした黒川は安寿から身を離して愉しそうに言った。

 「安寿、君だって『真っ黒な悪魔』じゃないか。いや『真っ黒な天使』と言うべきかな? 本当に君は凄まじいひとだな。ますます君のことが欲しくなってきたよ」

 漆黒の影を帯びた黒川の形相に安寿は身体じゅうが硬直した。もう逃げられないと思い知った。なんとか脱がされたパジャマを引き寄せて胸を覆い、無力に横たわったまま顔を崩して安寿は叫んだ。

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