今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 肩をいからせた航志朗は華鶴の後に続いて、真っ暗な黒川家の長い廊下を奥へと進んでいた。辺りを見回してみても安寿の姿は見当たらない。しかも人の気配すらなく静まり返っている。いやがうえにも航志朗の胸の鼓動が早まっていく。

 (安寿は、いったいどこにいるんだ……)

 その時、安寿の叫び声が聞こえた。

 「助けて! ……航志朗さん!」

 顔色を変えた航志朗は華鶴の脇をすり抜けて走り出した。

 「安寿! どこだ!」

 一番奥の広間に薄明かりがともっていた。そのなかに駆け込んだ航志朗は目を大きく見開いて立ちすくんだ。まっさきに身体を真っ黒に汚した安寿の姿が見えた。安寿の前には半裸の黒川の姿が見える。黒川の身体も真っ黒だ。

 黒川は航志朗を見ると肩をすくめて言った。

 「おやおや、王子さまのご登場か……」

 「航志朗さん、……航志朗さん」

 安寿は声にならない声で航志朗の名前を呼ぶと、横たわったままで航志朗に力なく手を伸ばした。すぐに航志朗は安寿を抱き上げて腕の中にきつく抱きしめた。

 「安寿、もう大丈夫だ。俺が君を守る。安心しろ!」

 弱々しく安寿は航志朗にしがみついた。

 激しい憎悪を込めて航志朗は黒川をにらみつけて叫んだ。

 「俺の安寿に、なんてことをしたんだ!」

 浴衣に袖を通しながら黒川が言った。

 「せっかく永遠の愛を誓って結婚したのに、ほったらかしにされてかわいそうだと思ったんだよ。気まぐれに帰国しては彼女の身体を気ままに愉しんで、飽きたらまた遠くへ飛び立ってしまう。……残酷すぎるだろう、航志朗くん?」

 うつむいたままの安寿は胸の奥で思った。

 (私たち、永遠の愛なんて誓っていない……)

 黒川の悪意に満ちた言葉に航志朗は言い返せなかった。黒川は含み笑いをしながら広間を見回して言った。

 「航志朗くん、まだ気がつかないのかい? 周りを見てごらん。君の妻がその身と心を捧げて描いた襖絵を」

 黒川の言葉に眉をひそめた航志朗は広間を囲んだ襖を見回した。すぐさま大きく目を見開いて航志朗は慄然とした。

 (なんなんだ、この襖絵は……)

 まだ着彩されていない箇所がところどころにある未完成の襖絵だが、ただただ圧倒される。航志朗にはわかる。まごうことなき安寿の絵だ。岩絵具で描かれた森が広間を取り囲んだ襖一面に広がっている。清らかにも陰湿にも見える相反した要素が共存した森の絵だ。航志朗は腕の中でうつむいた安寿を無言で見つめた。

 黒川は航志朗の反応を面白そうに眺めてから言った。

 「なんのために彼女が描いたのかわかるかい? 君のちっぽけな欲望のためにだよ。あの僕の森を君が取り戻すためにさ。健気じゃないか、涙が出てくるよ。自分を失くしてしまうほどに、持てるすべての力をふりしぼって」

 「安寿……」

 ぐったりともたれかかった安寿を航志朗はそっと抱きしめて言った。

 「安寿、聞いてくれ。もう俺はあの森なんていらない。君が俺と一緒にいてくれるだけでいい。本当にただそれだけでいいんだ……」

 片方の眉を吊り上げて黒川が言った。

 「航志朗くん、ずいぶんとあっさりあきらめたんだな。でもまだ終わっていない。安寿、こっちにおいで。この一週間、ずっと僕の腕の中にいただろう? 気持ちよさそうに可愛らしい微笑みを浮かべて。そもそもはじめから、あの森なんて僕はどうでもいい。安寿、僕は君を愛している。だから君が欲しいんだ。僕のところに来た方が、君は幸せになれる」

 黒川は安寿に向かって黒く汚れた手を差し伸べた。

 黒川を見すえて航志朗は大声で怒鳴った。

 「黙れ! これ以上、安寿を傷つけるな!」

 「心外だな、君が安寿を傷つけているのに」

 航志朗は黒川をにらみつけた。身を縮めた安寿は航志朗の胸元を震えながら弱々しく握りしめた。

 その時、ずっと廊下から黙って見ていた華鶴が静かに言った。

 「ふたりとも、もうおやめなさい」

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