今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
同時に航志朗と黒川は華鶴を見た。華鶴の表情に感情はまったくうかがえない。
一度深くため息をついてから、華鶴は低く単調な声で言った。
「皓貴さん。あなたが安寿さんを欲しいと思うのは、安寿さんがあなたと同じ血を持っているからよ。……あなたは、ただもう一人の自分が欲しいだけ」
まったく驚きもせずに、黒川は華鶴に向かっておどけた口調で言った。
「なるほど。ということは、安寿もあの画家の隠し子なんですね。……華鶴お母さま?」
一瞬、華鶴の目の奥が光った。
思わず航志朗は安寿に回した腕の力を強めた。航志朗の腕の中から安寿は透き通った瞳で華鶴を見つめた。
「あなた、……知っていたの?」
「もちろん。母が死ぬ前に僕に教えてくれました。僕があなたが産んだ子どもだっていうことをね。……まあ、うすうす気づいていましたが」
「……そう」
「あなたは宗嗣おじさまとの政略結婚が決まってパリから帰国された時に、さぞ驚いたでしょうね? 始末されたと思っていた僕が生きていたんだから。黒川家は実に穢れていますよ。あの裏の井戸の底には、たくさんの黒川家にとって不都合だった者たちが眠っている。深い深い怨みを抱えてね。僕もその一人になるはずだった」
急に吐き気が襲ってきて、安寿は口を押さえた。
(その井戸の水を、私、たくさん飲んだ……)
華鶴は顔色ひとつ変えずに言った。
「そう。あなたのおっしゃる通りよ」
「ところが、母は僕が欲しいと言い出した。十代で黒川家に嫁いで十年あまり、ずっと子どもを授からなかったからね。よその女に産ませるよりはずっとましだ。そこで父は考えた。僕は黒川家にとって、おあつらえ向きの跡継ぎだってね」
黒川は航志朗の腕の中の安寿を見つめた。その視線に気づいた安寿はあわてて顔を航志朗の胸に押しつけた。
「そうそう。僕は、血の繋がった実の父親の名前も知っていますよ。金を多少積んで調べれば、そんなことは容易にわかる。彼の名前は、古閑康生。またの名は、コーセー・ツジ。かつてニューヨークで大いに羽振りを利かせた短命の天才画家……」
「なんだって!」
顔を蒼白にさせて航志朗が叫んだ。すぐに安寿の顔色をうかがうが、目を閉じて安寿はじっと微動だにしない。
ずっと冷静なままの華鶴が口を開いた。華鶴は月明かりを背後にして白い光を帯びている。その姿形は、今、そこに存在していないかのように薄くなっている。過去のどこかで置き忘れた幻影そのものだ。
「皓貴さん、あなたに言っておくわ。私が初めて産んだ子は、もう私の世界にはいないわ。……私が愛したただ一人の男もね」
華鶴は白いジャケットを脱いで安寿に掛けると、安寿の黒革のショルダーバッグを手に持って航志朗に言った。
「帰るわよ」
華鶴は黒川家の玄関に向かってまっすぐに歩いて行った。
安寿を抱きかかえながら航志朗は立ち上がった。おぼつかない足取りの安寿を支えて広間を出る。安寿は振り返って黒川の姿を見た。下を向いた黒川は肩を震わせて笑っているように見えたが、その姿もまた輪郭がぼやけて薄い霞のようだった。
安寿は小さい声でつぶやいた。
「私の、……お兄さん」
そのつぶやきは航志朗の耳に入った。航志朗も胸の内でひとりごとを言った。
(俺の、……兄か)
一度深くため息をついてから、華鶴は低く単調な声で言った。
「皓貴さん。あなたが安寿さんを欲しいと思うのは、安寿さんがあなたと同じ血を持っているからよ。……あなたは、ただもう一人の自分が欲しいだけ」
まったく驚きもせずに、黒川は華鶴に向かっておどけた口調で言った。
「なるほど。ということは、安寿もあの画家の隠し子なんですね。……華鶴お母さま?」
一瞬、華鶴の目の奥が光った。
思わず航志朗は安寿に回した腕の力を強めた。航志朗の腕の中から安寿は透き通った瞳で華鶴を見つめた。
「あなた、……知っていたの?」
「もちろん。母が死ぬ前に僕に教えてくれました。僕があなたが産んだ子どもだっていうことをね。……まあ、うすうす気づいていましたが」
「……そう」
「あなたは宗嗣おじさまとの政略結婚が決まってパリから帰国された時に、さぞ驚いたでしょうね? 始末されたと思っていた僕が生きていたんだから。黒川家は実に穢れていますよ。あの裏の井戸の底には、たくさんの黒川家にとって不都合だった者たちが眠っている。深い深い怨みを抱えてね。僕もその一人になるはずだった」
急に吐き気が襲ってきて、安寿は口を押さえた。
(その井戸の水を、私、たくさん飲んだ……)
華鶴は顔色ひとつ変えずに言った。
「そう。あなたのおっしゃる通りよ」
「ところが、母は僕が欲しいと言い出した。十代で黒川家に嫁いで十年あまり、ずっと子どもを授からなかったからね。よその女に産ませるよりはずっとましだ。そこで父は考えた。僕は黒川家にとって、おあつらえ向きの跡継ぎだってね」
黒川は航志朗の腕の中の安寿を見つめた。その視線に気づいた安寿はあわてて顔を航志朗の胸に押しつけた。
「そうそう。僕は、血の繋がった実の父親の名前も知っていますよ。金を多少積んで調べれば、そんなことは容易にわかる。彼の名前は、古閑康生。またの名は、コーセー・ツジ。かつてニューヨークで大いに羽振りを利かせた短命の天才画家……」
「なんだって!」
顔を蒼白にさせて航志朗が叫んだ。すぐに安寿の顔色をうかがうが、目を閉じて安寿はじっと微動だにしない。
ずっと冷静なままの華鶴が口を開いた。華鶴は月明かりを背後にして白い光を帯びている。その姿形は、今、そこに存在していないかのように薄くなっている。過去のどこかで置き忘れた幻影そのものだ。
「皓貴さん、あなたに言っておくわ。私が初めて産んだ子は、もう私の世界にはいないわ。……私が愛したただ一人の男もね」
華鶴は白いジャケットを脱いで安寿に掛けると、安寿の黒革のショルダーバッグを手に持って航志朗に言った。
「帰るわよ」
華鶴は黒川家の玄関に向かってまっすぐに歩いて行った。
安寿を抱きかかえながら航志朗は立ち上がった。おぼつかない足取りの安寿を支えて広間を出る。安寿は振り返って黒川の姿を見た。下を向いた黒川は肩を震わせて笑っているように見えたが、その姿もまた輪郭がぼやけて薄い霞のようだった。
安寿は小さい声でつぶやいた。
「私の、……お兄さん」
そのつぶやきは航志朗の耳に入った。航志朗も胸の内でひとりごとを言った。
(俺の、……兄か)