今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 一人になった安寿の脳裏にはモノクロの幻影が渦巻いていた。暗闇の中で安寿は何かから逃げようともがいたが、身体を無理やり押さえつけられて身動きがとれない。大声をあげたくても、口が真っ黒な液体をしたたらせる生温かい手に押さえつけられている。安寿はそれをなんとか振りきって走り出した。暗闇に立ちつくす樹々が騒めいて、心を凍らすような低く重い音を立てている。

 安寿は灰色の池の前にたどり着いた。何かが後ろから迫って来ている。もう時間がない。安寿は後ろに倒れるように池の中に飛び込んだ。池の水は冷たくもなく温かくもない。ゆっくりと安寿は池の底に沈んでいった。池の水面をのぞき込む誰かの姿が映っている。朦朧とする意識のなかで安寿は思った。

 (私はずっと彼に伝えたいことがあった。でも、愚かな私にはその力がない)

 安寿と自分の洗濯物を洗濯乾燥機に放り込んで、文字通り五分でシャワーを浴びて航志朗がリビングルームに戻って来ると、安寿がソファの上にうつ伏せで横たわっているのが目に入った。急いで航志朗は安寿の身体を抱き起こした。安寿は目を開けたままで、その目は虚ろだ。航志朗は苦しげな表情で安寿を見つめた。時計を見ると午前三時になっている。航志朗はキッチンに行って冷蔵庫を開けた。調味料以外は何も入っていない。冷凍庫の中を見ると冷凍うどんが入っていた。航志朗はレンジアップした湯気の立つうどんにめんつゆをかけると安寿のところに持って行った。

 「安寿、お腹が空いたんじゃないか。これしかないけど食べるか?」

 ゆっくりと安寿はうなずいた。安寿を起こして航志朗は息を吹きかけて冷ましながら、安寿の口に箸でうどんを運んだ。つるつると安寿はうどんを口にした。それを見て急に空腹を覚えた航志朗は自分の口にも入れた。だんだんふたりはお腹が温まってきて安堵感に包まれた。航志朗は安寿の肩を抱くと目を細めて微笑みかけた。安寿はまじろぎもぜずに航志朗の優しい光を帯びた琥珀色の瞳を見つめた。みるみるうちに安寿の目に大粒の涙がたまってくる。またたく間にあふれ出した涙は安寿の両頬を伝ってこぼれ落ちた。安寿は航志朗の胸に飛び込んだ。しっかりと安寿の身体を受けとめて、航志朗は安寿をきつく抱きしめた。激しくしゃくりあげながら安寿がとぎれとぎれに言った。

 「わ、私、この一週間、あの家で何があったのか、ぜんぜん覚えていない。私、あのひとと……」

 安寿は航志朗の身体にしがみつきながら震え出した。航志朗は安寿の頭を抱えて自分の胸に押しつけた。

 「もういい、安寿。俺のために本当にすまなかった。さあ、安心して一緒に眠ろう」

 小さく安寿はうなずいた。

 ベッドの上で航志朗はタオルケットで包んだ安寿を抱きしめた。目を閉じた安寿のこわばった背中を優しくなでていると、やがて、安寿の深い寝息が聞こえてきた。やっと安寿との安らかな時間が戻って来たのを感じて、航志朗は全身の力が抜けた。身体じゅうが消耗しきっているのを感じる。だが、頭のなかは冴えたままだ。どうしてもこれから先の暗雲を感じずにはいられない。隠されていた真実の一端は明らかになったが、安寿がそれをどう受け取るのかが気がかりだ。すでに安寿は取り返しがつかないくらい深く傷つけられたのかもしれない。

 涙の跡がついた安寿の寝顔を見つめながら航志朗は痛切に思った。

 (とにかく安寿と俺は兄妹じゃなかった。だから、まだ俺には彼女を愛する資格がある。……安寿が俺を心から許してくれるのなら)
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