今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
微かな物音を耳にして安寿は目を覚ました。窓辺で椅子に座った航志朗の後ろ姿が見えた。安寿はそれに気づいて目を見張った。キャンバスの前に座った航志朗が、左手に油絵のパレットを持ち、右手で画筆を持って何かを描いている。パレットの上には、黄色やオレンジ、赤と白を混ぜたピンクの明るい色彩がのっている。ソファの上で横になったままで、安寿は絵を描く航志朗の後ろ姿をしばらく眺めていた。
「そろそろ昼食の時間だな」とつぶやいて、航志朗は立ち上がった。突然、キャンバスの絵が安寿の目に入って、思わず安寿は勢いよく起き上がった。
「ん?」
航志朗がソファに目を向けると、起き上がった安寿が足元をふらふらさせながら近寄って来るのに気づいた。安寿は膝をついて、航志朗の絵に見入った。ごしごしと目をこすり始めた安寿を見て、航志朗はカーペットの上に落ちたバスタオルを拾って安寿の濡れた頬をそっと拭いた。
少し照れながら航志朗は言った。
「君を一人にして花屋に行けないから描いてみたんだ。……君のために」
安寿の目の前には、青空を背景にした描きかけのカラフルな花畑が広がっていた。伊藤家のリビングルームに飾られていた絵と同じで、明るく朗らかな絵だ。
「無断で君の油絵具を使ってしまったけど、よかったか?」
安寿はその問いには答えずに、航志朗の絵を見つめてつぶやいた。
「私がぜんぜん使ったことがない色ばかり……」
「確かに。オレンジ色のチューブは新品のままだったな」
安寿は航志朗が器用に揚げた小エビと野菜のかき揚げとそうめんを食べた。後片づけをしてからまた航志朗は画筆を取った。ソファに座って、ずっと安寿は航志朗が絵を描く後ろ姿を見つめていた。ときどき航志朗は振り返って安寿に微笑みかけた。安寿は穏やかに航志朗を見つめ返しながらぼんやりと思った。
(私、航志朗さんのことが本当に好き。今、この想いを彼に伝えてもいいのかな……)
だが、すぐに安寿は真っ黒な気持ちに取り囲まれた。苦しくなって胸を両腕で強く押さえつけると、心臓から黒い液体がぽたぽたとしたたり落ちてくる。
(それはだめ。絶対にだめ。私と一緒にいたら、航志朗さんは絶対に幸せになれない。そう、私は自立しなくちゃいけないんだ。一日でも早く一人で生きていけるようになって、彼を自由にしてあげなくちゃ。結局、私は航志朗さんの役に立つことができなかった。彼のために今の私にできることは、もうそれしかない)
安寿はよろけながら立ち上がった。振り返った航志朗があわてて言った。
「安寿、どうした?」
「私、ちょっと散歩に行って来ます。少しでも外に出て歩かないと」
顔をしかめて航志朗は安寿に近づいて言った。
「無理するな、安寿。もうしばらく君はゆっくり家で休んだ方がいい」
「でも、早く体力を回復しなくては。航志朗さんにずっとご迷惑をおかけするわけにはいきませんから」
安寿は胸がまたひどく苦しくなってうつむいた。
航志朗は安寿をそっと抱きしめて言った。
「俺は迷惑だなんてまったく思わない。むしろ心から嬉しいよ。君が食べる食事をつくって、君が着た服の洗濯をして。夫婦ってそういうものだろ、安寿」
瞳を見開いて安寿は航志朗を見上げた。温かいまなざしで安寿を見つめて、また航志朗は言った。
「安寿。君が元気になったら、普通のデートをしようか?」
すぐにうなずいた安寿は航志朗にきつくしがみついた。肩を小刻みに動かす安寿の頭を航志朗は微笑みながら優しくなでた。
「そろそろ昼食の時間だな」とつぶやいて、航志朗は立ち上がった。突然、キャンバスの絵が安寿の目に入って、思わず安寿は勢いよく起き上がった。
「ん?」
航志朗がソファに目を向けると、起き上がった安寿が足元をふらふらさせながら近寄って来るのに気づいた。安寿は膝をついて、航志朗の絵に見入った。ごしごしと目をこすり始めた安寿を見て、航志朗はカーペットの上に落ちたバスタオルを拾って安寿の濡れた頬をそっと拭いた。
少し照れながら航志朗は言った。
「君を一人にして花屋に行けないから描いてみたんだ。……君のために」
安寿の目の前には、青空を背景にした描きかけのカラフルな花畑が広がっていた。伊藤家のリビングルームに飾られていた絵と同じで、明るく朗らかな絵だ。
「無断で君の油絵具を使ってしまったけど、よかったか?」
安寿はその問いには答えずに、航志朗の絵を見つめてつぶやいた。
「私がぜんぜん使ったことがない色ばかり……」
「確かに。オレンジ色のチューブは新品のままだったな」
安寿は航志朗が器用に揚げた小エビと野菜のかき揚げとそうめんを食べた。後片づけをしてからまた航志朗は画筆を取った。ソファに座って、ずっと安寿は航志朗が絵を描く後ろ姿を見つめていた。ときどき航志朗は振り返って安寿に微笑みかけた。安寿は穏やかに航志朗を見つめ返しながらぼんやりと思った。
(私、航志朗さんのことが本当に好き。今、この想いを彼に伝えてもいいのかな……)
だが、すぐに安寿は真っ黒な気持ちに取り囲まれた。苦しくなって胸を両腕で強く押さえつけると、心臓から黒い液体がぽたぽたとしたたり落ちてくる。
(それはだめ。絶対にだめ。私と一緒にいたら、航志朗さんは絶対に幸せになれない。そう、私は自立しなくちゃいけないんだ。一日でも早く一人で生きていけるようになって、彼を自由にしてあげなくちゃ。結局、私は航志朗さんの役に立つことができなかった。彼のために今の私にできることは、もうそれしかない)
安寿はよろけながら立ち上がった。振り返った航志朗があわてて言った。
「安寿、どうした?」
「私、ちょっと散歩に行って来ます。少しでも外に出て歩かないと」
顔をしかめて航志朗は安寿に近づいて言った。
「無理するな、安寿。もうしばらく君はゆっくり家で休んだ方がいい」
「でも、早く体力を回復しなくては。航志朗さんにずっとご迷惑をおかけするわけにはいきませんから」
安寿は胸がまたひどく苦しくなってうつむいた。
航志朗は安寿をそっと抱きしめて言った。
「俺は迷惑だなんてまったく思わない。むしろ心から嬉しいよ。君が食べる食事をつくって、君が着た服の洗濯をして。夫婦ってそういうものだろ、安寿」
瞳を見開いて安寿は航志朗を見上げた。温かいまなざしで安寿を見つめて、また航志朗は言った。
「安寿。君が元気になったら、普通のデートをしようか?」
すぐにうなずいた安寿は航志朗にきつくしがみついた。肩を小刻みに動かす安寿の頭を航志朗は微笑みながら優しくなでた。