今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
安寿はへとへとになってきた。次から次へと航志朗に服を勧められる。きっと航志朗は値段なんて見ていないし、ワンピースに高価な値段がついていることを知っているのかさえ怪しい。
勧めても勧めても次から次へと断る安寿に、ついに航志朗はショップスタッフを巻き込んだ。
「愛する妻にプレゼントしたいのですが、どれがいいと思われますか?」
思わず安寿はうつむいて思った。
(「愛する」は余計でしょ。やっぱり、航志朗さんて英語かフランス語で考えているのかな)
「そうですね……」
楽しそうな笑顔を浮かべてスタッフは首をかしげた。少し考えてからスタッフは言った。
「どちらへお召しになられるお洋服でしょうか?」
航志朗ははっきりと即答した。
「飛行機に乗って出かける時に」
驚いた安寿は航志朗を見上げた。航志朗はにっこり笑って安寿を見つめた。
「承知いたしました。それでしたら、リラックス感がありながらも、きちんとしたお洋服がよろしいですね。少々お待ちくださいませ」
そう言うと、いそいそとスタッフは奥に消えた。
やがて、スタッフがバックヤードから色違いのダークネイビーと水色の二着のロングワンピースを手に持って戻って来た。丸襟付きで身幅がゆったりとしているワンピースだ。肩から手首へのラインと裾まわりに雲か風のような刺繍が白い糸で丁寧にほどこされている。
安寿は目が釘付けになった。思わずため息まじりに小声でつぶやいた。
「素敵なワンピース……」
すかさず航志朗がショップスタッフに言った。
「さっそくですが、カギモトさん、試着をお願いできますか?」
胸をどきっとさせたスタッフは頬を赤らめて言った。
「も、もちろん、ご遠慮なくご試着くださいませ! どうぞこちらへ!」
航志朗は遠慮する安寿の背中を押して、鍵本について行った。
安寿と航志朗は前面に花柄の刺繍がしてあるカーテンの向こう側に通された。微笑みを浮かべながら鍵本がカーテンを引いた。広いフィッティングルームには大きな鏡が置いてあり、足元にはモスグリーンの毛足の長い円形のラグが敷いてある。しゃがんでスニーカーの紐をほどきながら不思議そうに安寿は尋ねた。
「航志朗さんは、どうしてあの店員さんのお名前を知っているんですか?」
「彼女の左胸にこの花柄と同じデザインのネームプレートがついていただろ」
アンティークベンチに腰掛けて航志朗はカーテンを指さした。
(そうだよね。店員さんだって、ちゃんとお名前があるんだものね。名前で呼んでもらえると嬉しいよね。ちょっとびっくりされていたけれど……)
こっそりと安寿はワンピースのプライスタグを探したが、二着ともついていなかった。安寿はため息をついた。
(とりあえず試着はしてみようかな。絶対にお断りすることになるから、鍵本さんには申しわけないけれど)
まず安寿はダークネイビーのワンピースの袖を通した。もちろん着ている白いリネンワンピースを脱ぐ前に「私がいいと言うまで、目をつむっていてください」と航志朗には言ってある。
航志朗は両手で目を隠して言った。
「安寿、もういーかい?」
安寿はくすっと肩をすくめて小声で答えた。
「……まーだだよ」
間髪を入れずに航志朗が言った。
「もういーかい?」
「まーだだよ……」
背中のファスナーを上げるのに手間取りながら、安寿はまた言った。
「もういーかい?」
明らかに航志朗はからかっている。
仏頂面をして安寿が大声で言った。
「まだですよ!」
静かな貸し切りの店内にふたりの掛け合いが響き渡っていることに、安寿と航志朗はまったく気づいていない。フィッティングルームの外に立った鍵本は両手で口を押さえて肩を震わせながら思った。
(なんて可愛らしいおふたりなの! ご夫婦というよりは、幼なじみの恋人どうしみたい。……お客さまに大変失礼だけど)
鏡の中の自分の姿をちらっと見てから、安寿は言った。
「航志朗さん、もういいですよ」
航志朗は目を開けると腕を組みながらまじまじと安寿を見つめて言った。
「うん。素敵だ。よく似合っているよ、安寿。空色の方も君が着ているところを見てみたい」
安寿は片方を試着しただけで断るつもりだったが、航志朗にほめられてつい嬉しくなってしまった。頬を赤らめてうつむきながら、安寿は後ろのファスナーに手を回した。「ほら、俺がやる」と航志朗が言って、ゆっくりとファスナーを下ろした。安寿の背中があらわになって今すぐにでも抱きしめたくなるが、航志朗はぐっとこらえた。安寿は振り返って言った。
「ありがとうございます。また目をつむっていてくださいね、航志朗さん」
布の擦れる音に航志朗はたまらない気持ちになった。ベンチに腰掛けて航志朗は頭を抱えながら、ある切実な想いを頭のなかに浮かべた。この二週間、隣で眠る安寿の寝顔を見つめながら、何度もくり返し考えたことだ。
(あの家で安寿はあんなに恐ろしい思いをしたんだ。しばらく彼女と抱き合うのは難しいだろうな……)
恥ずかしそうな安寿の声がした。
「こちらも着てみましたよ、航志朗さん」
あわてて顔を上げて航志朗は目を開けた。いきなり飛び込んできた目の前の光景に目を見開いて驚いた航志朗は小さい声をあげた。
「……なんだ?」
いきなり航志朗の身体に風が吹いて来て、一瞬、安寿が宙に浮いた気がした。
空色のワンピースを身にまとった安寿は、今にも背中の白い翼を広げて飛び立ってしまいそうに見えた。あせった航志朗は安寿をきつく抱きしめた。安寿に置いていかれそうな恐ろしい予感が襲ってきたからだ。
航志朗は全身に力を入れて自分自身に誓った。
(俺はこの命をかけて、絶対に安寿を離さない)
「航志朗さん?」
腕の中から安寿の不思議そうな声が聞こえた。目の前の安寿の黒い瞳は無垢そのものだ。
しばらく呆然と安寿を見つめてから、航志朗は宣言した。
「安寿、そのワンピースに決まりだな。俺が気に入った」
勧めても勧めても次から次へと断る安寿に、ついに航志朗はショップスタッフを巻き込んだ。
「愛する妻にプレゼントしたいのですが、どれがいいと思われますか?」
思わず安寿はうつむいて思った。
(「愛する」は余計でしょ。やっぱり、航志朗さんて英語かフランス語で考えているのかな)
「そうですね……」
楽しそうな笑顔を浮かべてスタッフは首をかしげた。少し考えてからスタッフは言った。
「どちらへお召しになられるお洋服でしょうか?」
航志朗ははっきりと即答した。
「飛行機に乗って出かける時に」
驚いた安寿は航志朗を見上げた。航志朗はにっこり笑って安寿を見つめた。
「承知いたしました。それでしたら、リラックス感がありながらも、きちんとしたお洋服がよろしいですね。少々お待ちくださいませ」
そう言うと、いそいそとスタッフは奥に消えた。
やがて、スタッフがバックヤードから色違いのダークネイビーと水色の二着のロングワンピースを手に持って戻って来た。丸襟付きで身幅がゆったりとしているワンピースだ。肩から手首へのラインと裾まわりに雲か風のような刺繍が白い糸で丁寧にほどこされている。
安寿は目が釘付けになった。思わずため息まじりに小声でつぶやいた。
「素敵なワンピース……」
すかさず航志朗がショップスタッフに言った。
「さっそくですが、カギモトさん、試着をお願いできますか?」
胸をどきっとさせたスタッフは頬を赤らめて言った。
「も、もちろん、ご遠慮なくご試着くださいませ! どうぞこちらへ!」
航志朗は遠慮する安寿の背中を押して、鍵本について行った。
安寿と航志朗は前面に花柄の刺繍がしてあるカーテンの向こう側に通された。微笑みを浮かべながら鍵本がカーテンを引いた。広いフィッティングルームには大きな鏡が置いてあり、足元にはモスグリーンの毛足の長い円形のラグが敷いてある。しゃがんでスニーカーの紐をほどきながら不思議そうに安寿は尋ねた。
「航志朗さんは、どうしてあの店員さんのお名前を知っているんですか?」
「彼女の左胸にこの花柄と同じデザインのネームプレートがついていただろ」
アンティークベンチに腰掛けて航志朗はカーテンを指さした。
(そうだよね。店員さんだって、ちゃんとお名前があるんだものね。名前で呼んでもらえると嬉しいよね。ちょっとびっくりされていたけれど……)
こっそりと安寿はワンピースのプライスタグを探したが、二着ともついていなかった。安寿はため息をついた。
(とりあえず試着はしてみようかな。絶対にお断りすることになるから、鍵本さんには申しわけないけれど)
まず安寿はダークネイビーのワンピースの袖を通した。もちろん着ている白いリネンワンピースを脱ぐ前に「私がいいと言うまで、目をつむっていてください」と航志朗には言ってある。
航志朗は両手で目を隠して言った。
「安寿、もういーかい?」
安寿はくすっと肩をすくめて小声で答えた。
「……まーだだよ」
間髪を入れずに航志朗が言った。
「もういーかい?」
「まーだだよ……」
背中のファスナーを上げるのに手間取りながら、安寿はまた言った。
「もういーかい?」
明らかに航志朗はからかっている。
仏頂面をして安寿が大声で言った。
「まだですよ!」
静かな貸し切りの店内にふたりの掛け合いが響き渡っていることに、安寿と航志朗はまったく気づいていない。フィッティングルームの外に立った鍵本は両手で口を押さえて肩を震わせながら思った。
(なんて可愛らしいおふたりなの! ご夫婦というよりは、幼なじみの恋人どうしみたい。……お客さまに大変失礼だけど)
鏡の中の自分の姿をちらっと見てから、安寿は言った。
「航志朗さん、もういいですよ」
航志朗は目を開けると腕を組みながらまじまじと安寿を見つめて言った。
「うん。素敵だ。よく似合っているよ、安寿。空色の方も君が着ているところを見てみたい」
安寿は片方を試着しただけで断るつもりだったが、航志朗にほめられてつい嬉しくなってしまった。頬を赤らめてうつむきながら、安寿は後ろのファスナーに手を回した。「ほら、俺がやる」と航志朗が言って、ゆっくりとファスナーを下ろした。安寿の背中があらわになって今すぐにでも抱きしめたくなるが、航志朗はぐっとこらえた。安寿は振り返って言った。
「ありがとうございます。また目をつむっていてくださいね、航志朗さん」
布の擦れる音に航志朗はたまらない気持ちになった。ベンチに腰掛けて航志朗は頭を抱えながら、ある切実な想いを頭のなかに浮かべた。この二週間、隣で眠る安寿の寝顔を見つめながら、何度もくり返し考えたことだ。
(あの家で安寿はあんなに恐ろしい思いをしたんだ。しばらく彼女と抱き合うのは難しいだろうな……)
恥ずかしそうな安寿の声がした。
「こちらも着てみましたよ、航志朗さん」
あわてて顔を上げて航志朗は目を開けた。いきなり飛び込んできた目の前の光景に目を見開いて驚いた航志朗は小さい声をあげた。
「……なんだ?」
いきなり航志朗の身体に風が吹いて来て、一瞬、安寿が宙に浮いた気がした。
空色のワンピースを身にまとった安寿は、今にも背中の白い翼を広げて飛び立ってしまいそうに見えた。あせった航志朗は安寿をきつく抱きしめた。安寿に置いていかれそうな恐ろしい予感が襲ってきたからだ。
航志朗は全身に力を入れて自分自身に誓った。
(俺はこの命をかけて、絶対に安寿を離さない)
「航志朗さん?」
腕の中から安寿の不思議そうな声が聞こえた。目の前の安寿の黒い瞳は無垢そのものだ。
しばらく呆然と安寿を見つめてから、航志朗は宣言した。
「安寿、そのワンピースに決まりだな。俺が気に入った」