今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第3節
その日の太陽が沈みはじめた。ビルの隙間から差し込んできた西日が三人の乗った車をまぶしく照らす。ハンドルを握った航志朗は後部座席をそっとうかがった。安寿と恵は黙って手をつないで座っている。
恵が指定したホテルには団地を出発してから三十分ほどで着いた。ホテルの地下駐車場に車を停めて、三人は渡辺が待っているという一階にあるロビーに向かった。
恵は目を真っ赤に腫らして、涙の跡が残っている頬の化粧直しもせずに、必死に安寿を支えて歩いていた。恵の黒革のボストンバッグを持って安寿と恵の後ろをついて行きながら、航志朗は思った。
(今まで、ふたりだけで支え合って生きてきたんだろうな。俺が今していることは、はたして正しいことなんだろうか……)
一階のロビーのソファに座ってスマートフォンを操作していた男が、恵と安寿に気づいて立ち上がった。渡辺優仁である。落ち着いたブラウン系のグレンチェックのジャケットを羽織り、ベージュのコットンパンツを穿いている。何げない服装だが、こなれた印象を受ける。渡辺は目を丸くしてから、柔らかい口調で言った。
「あれ、恵ちゃん、どうしたの? 安寿ちゃんも、その足いったいどうしたの? ふたりで大げんかでもした?」
「優ちゃん……」
恵は涙を両頬に伝わらせて渡辺に駆け寄って行った。渡辺は恵を受け止めて、その肩に腕を回して引き寄せた。
「恵ちゃん、ぼろぼろじゃないか、可愛い顔がだいなしだよ」
渡辺はポケットからアイロンがかかった白いハンカチを取り出して、そっと恵の涙を拭いた。そして、渡辺は安寿の隣に立った航志朗に気さくに笑いかけた。無言で航志朗は渡辺に会釈した。
「まあ、とにかくラウンジに行こうか。けがをしている安寿ちゃんを、ずっと立たせているわけにもいかないしね」と渡辺は言って、中二階にあるラウンジを指さした。
四人はラウンジの奥まったスペースにあるゆったりとしたソファが並んだ席に座った。ラウンジの優秀なスタッフが客の状況を的確に判断して案内してくれたのだろう。渡辺と航志朗はコーヒーを頼み、恵は紅茶、安寿はアップルジュースを頼んだ。航志朗はオーダーを受けたホールスタッフに、「すいませんが、アップルジュースは、氷なしでお願いします」とスマートに頼んだ。もちろん安寿の身体を気遣ってだ。恵は安寿に対して細かな心遣いをした航志朗を見て思った。
(このひとは、見た目よりもずっと優しいひとなのかもしれない)
安寿は、「安寿ちゃん、せっかくだからケーキでも食べたら?」と渡辺に勧められたが、丁寧に断った。パティシエがつくったホテルメイドの華やかなケーキを楽しむような余裕は、今の安寿にはない。
ひとしきり恵からとぎれとぎれの話を聞いた渡辺は、腕組みをしてふんふんとうなずいて、いともあっさりと言った。
「で、何が問題なの、恵ちゃん? 安寿ちゃんと岸くんは愛し合っていて、結婚することを決めた。おふたりには、心から結婚おめでとう! でしょ?」
それでも恵は渡辺に必死になって駄々をこねるように訴えた。
「だって、だって、安寿は、まだ十八歳の高校生なのよ!」
「年齢なんて関係ないじゃないか。僕の母は十九歳で結婚して、二十歳で僕を産んだよ。まあ、できちゃった婚だったけどね」
「えっ、そうだったの?」と恵は目をまん丸くして驚いた。
安寿はだんだんいつもの叔母に戻ってきた恵に安堵しはじめていた。恵と渡辺は本当に仲がよさそうだ。別れるなんてありえない。
航志朗は渡辺優仁の名前を知っていた。渡辺が編集した雑誌の記事や彼が書いた美術論考を読んだことがあるのだ。航志朗は新しい視点で論じられた鋭利な文章だと感心して、渡辺の名前を記憶していた。渡辺は相当に頭の切れたクールな人物かと思っていたが、実際の彼は柔和で優しい感じを受ける。その場で航志朗は渡辺に対して好感を持った。
渡辺は楽しそうに話し続けた。
「そうか、そうか。赤ちゃんの頃から知っている安寿ちゃんが結婚か。僕も年を取るわけだ。そういえば、安寿ちゃん、高校生になってから急にきれいになったなあって思っていたけれど、そうか、恋をしていたんだね。それにしても、岸くんの気持ちわかるよ。安寿ちゃんの高校、共学だよね。高校の野郎どもに告られたり追いかけられたりしているんじゃないの? うんうん、心配だよね。これは、さっさと結婚したくもなるよね」
その言葉を聞いて、航志朗はぎょっとした顔で安寿を見た。安寿はあわてて首を横に振った。その様子を目の当たりにした渡辺は、両肩を揺らして大笑いをした。
恵は冷めてしまった紅茶を飲みながら改めて航志朗を盗み見て思った。
(こんなにも素敵な男性なんだから、安寿の方が心配じゃないの……)
その時、それまで冗談まじりだった渡辺が急に真顔になった。
「恵、今夜、君は、僕と別れるつもりだったんだろう?」
恵は突然の渡辺の単刀直入な言葉に思わず素直にうなずいた。こらえきれずに恵はまた涙を流した。そんな恵を渡辺は人目もはばからずに横から抱きしめた。
「僕が君と別れられるわけがないだろう。僕は十三歳の時から、君に恋しているんだ。僕には君しかいないんだ。今も、これからもずっと」
恵は子どものように泣きじゃくりながら言った。
「だって、優ちゃん、来年、私たち四十歳よ。私、あなたの赤ちゃんを産めないかもしれないじゃない!」
「君はそんなことを気にしていたのか? 僕は子どもが欲しいから君と結婚したいんじゃない。君とずっと一緒にいたいからじゃないか!」と渡辺は言って、恵を強く抱きしめた。
(ありえない。二十六年間、待ち続けたっていうことか。アンの斜め上をはるかに超えているな)
頭のなかで冷静に計算をした航志朗は驚いて、隣の安寿の顔を見た。安寿は頬を赤くしつつも微笑んで恵と渡辺を見ている。
(よかった。本当によかった。恵ちゃん、優仁さんとたくさん幸せになってね)と、安寿は心から思った。
「じゃあ、そろそろ僕たちはおいとまさせてもらうよ。安寿ちゃん、結婚おめでとう。それから、くれぐれもお大事にね。岸くん、安寿ちゃんを頼んだよ」と渡辺は言い、手を伸ばして航志朗の肩をたたいてから、恵をうながして立ち上がった。恵はあわてて、「安寿が……」と言いかけたが、それをさえぎった渡辺は、「大丈夫。安寿ちゃんたちを信じろ」と強い口調で言った。
その時、安寿が恵に言い出した。
「待って、恵ちゃん。お願いがあるの。婚姻届に証人として、恵ちゃんにサインをしてもらいたいの」
航志朗は安寿を見て思った。
(そうだった。すっかり忘れていたな……)
航志朗は内ポケットから婚姻届を出してテーブルの上に広げた。渡辺は、「へえ、これが婚姻届か。初めて見たな」と腕を組んで感心した。
恵は婚姻届の証人の欄に丁寧にサインした。とても美しい字だ。そして、航志朗に向かって、「岸さん、安寿をどうかよろしくお願いいたします」と言って、航志朗に深々と頭を下げた。ラウンジのカーペットに恵の涙がぽたぽたと落ちた。渡辺は、「あーあ、恵ちゃん、また泣いちゃったの?」と言って、ハンカチで頬を拭いて、恵の肩を抱いた。そして、恵と渡辺は客室へ向かうエレベーターの方へと去って行った。
恵が指定したホテルには団地を出発してから三十分ほどで着いた。ホテルの地下駐車場に車を停めて、三人は渡辺が待っているという一階にあるロビーに向かった。
恵は目を真っ赤に腫らして、涙の跡が残っている頬の化粧直しもせずに、必死に安寿を支えて歩いていた。恵の黒革のボストンバッグを持って安寿と恵の後ろをついて行きながら、航志朗は思った。
(今まで、ふたりだけで支え合って生きてきたんだろうな。俺が今していることは、はたして正しいことなんだろうか……)
一階のロビーのソファに座ってスマートフォンを操作していた男が、恵と安寿に気づいて立ち上がった。渡辺優仁である。落ち着いたブラウン系のグレンチェックのジャケットを羽織り、ベージュのコットンパンツを穿いている。何げない服装だが、こなれた印象を受ける。渡辺は目を丸くしてから、柔らかい口調で言った。
「あれ、恵ちゃん、どうしたの? 安寿ちゃんも、その足いったいどうしたの? ふたりで大げんかでもした?」
「優ちゃん……」
恵は涙を両頬に伝わらせて渡辺に駆け寄って行った。渡辺は恵を受け止めて、その肩に腕を回して引き寄せた。
「恵ちゃん、ぼろぼろじゃないか、可愛い顔がだいなしだよ」
渡辺はポケットからアイロンがかかった白いハンカチを取り出して、そっと恵の涙を拭いた。そして、渡辺は安寿の隣に立った航志朗に気さくに笑いかけた。無言で航志朗は渡辺に会釈した。
「まあ、とにかくラウンジに行こうか。けがをしている安寿ちゃんを、ずっと立たせているわけにもいかないしね」と渡辺は言って、中二階にあるラウンジを指さした。
四人はラウンジの奥まったスペースにあるゆったりとしたソファが並んだ席に座った。ラウンジの優秀なスタッフが客の状況を的確に判断して案内してくれたのだろう。渡辺と航志朗はコーヒーを頼み、恵は紅茶、安寿はアップルジュースを頼んだ。航志朗はオーダーを受けたホールスタッフに、「すいませんが、アップルジュースは、氷なしでお願いします」とスマートに頼んだ。もちろん安寿の身体を気遣ってだ。恵は安寿に対して細かな心遣いをした航志朗を見て思った。
(このひとは、見た目よりもずっと優しいひとなのかもしれない)
安寿は、「安寿ちゃん、せっかくだからケーキでも食べたら?」と渡辺に勧められたが、丁寧に断った。パティシエがつくったホテルメイドの華やかなケーキを楽しむような余裕は、今の安寿にはない。
ひとしきり恵からとぎれとぎれの話を聞いた渡辺は、腕組みをしてふんふんとうなずいて、いともあっさりと言った。
「で、何が問題なの、恵ちゃん? 安寿ちゃんと岸くんは愛し合っていて、結婚することを決めた。おふたりには、心から結婚おめでとう! でしょ?」
それでも恵は渡辺に必死になって駄々をこねるように訴えた。
「だって、だって、安寿は、まだ十八歳の高校生なのよ!」
「年齢なんて関係ないじゃないか。僕の母は十九歳で結婚して、二十歳で僕を産んだよ。まあ、できちゃった婚だったけどね」
「えっ、そうだったの?」と恵は目をまん丸くして驚いた。
安寿はだんだんいつもの叔母に戻ってきた恵に安堵しはじめていた。恵と渡辺は本当に仲がよさそうだ。別れるなんてありえない。
航志朗は渡辺優仁の名前を知っていた。渡辺が編集した雑誌の記事や彼が書いた美術論考を読んだことがあるのだ。航志朗は新しい視点で論じられた鋭利な文章だと感心して、渡辺の名前を記憶していた。渡辺は相当に頭の切れたクールな人物かと思っていたが、実際の彼は柔和で優しい感じを受ける。その場で航志朗は渡辺に対して好感を持った。
渡辺は楽しそうに話し続けた。
「そうか、そうか。赤ちゃんの頃から知っている安寿ちゃんが結婚か。僕も年を取るわけだ。そういえば、安寿ちゃん、高校生になってから急にきれいになったなあって思っていたけれど、そうか、恋をしていたんだね。それにしても、岸くんの気持ちわかるよ。安寿ちゃんの高校、共学だよね。高校の野郎どもに告られたり追いかけられたりしているんじゃないの? うんうん、心配だよね。これは、さっさと結婚したくもなるよね」
その言葉を聞いて、航志朗はぎょっとした顔で安寿を見た。安寿はあわてて首を横に振った。その様子を目の当たりにした渡辺は、両肩を揺らして大笑いをした。
恵は冷めてしまった紅茶を飲みながら改めて航志朗を盗み見て思った。
(こんなにも素敵な男性なんだから、安寿の方が心配じゃないの……)
その時、それまで冗談まじりだった渡辺が急に真顔になった。
「恵、今夜、君は、僕と別れるつもりだったんだろう?」
恵は突然の渡辺の単刀直入な言葉に思わず素直にうなずいた。こらえきれずに恵はまた涙を流した。そんな恵を渡辺は人目もはばからずに横から抱きしめた。
「僕が君と別れられるわけがないだろう。僕は十三歳の時から、君に恋しているんだ。僕には君しかいないんだ。今も、これからもずっと」
恵は子どものように泣きじゃくりながら言った。
「だって、優ちゃん、来年、私たち四十歳よ。私、あなたの赤ちゃんを産めないかもしれないじゃない!」
「君はそんなことを気にしていたのか? 僕は子どもが欲しいから君と結婚したいんじゃない。君とずっと一緒にいたいからじゃないか!」と渡辺は言って、恵を強く抱きしめた。
(ありえない。二十六年間、待ち続けたっていうことか。アンの斜め上をはるかに超えているな)
頭のなかで冷静に計算をした航志朗は驚いて、隣の安寿の顔を見た。安寿は頬を赤くしつつも微笑んで恵と渡辺を見ている。
(よかった。本当によかった。恵ちゃん、優仁さんとたくさん幸せになってね)と、安寿は心から思った。
「じゃあ、そろそろ僕たちはおいとまさせてもらうよ。安寿ちゃん、結婚おめでとう。それから、くれぐれもお大事にね。岸くん、安寿ちゃんを頼んだよ」と渡辺は言い、手を伸ばして航志朗の肩をたたいてから、恵をうながして立ち上がった。恵はあわてて、「安寿が……」と言いかけたが、それをさえぎった渡辺は、「大丈夫。安寿ちゃんたちを信じろ」と強い口調で言った。
その時、安寿が恵に言い出した。
「待って、恵ちゃん。お願いがあるの。婚姻届に証人として、恵ちゃんにサインをしてもらいたいの」
航志朗は安寿を見て思った。
(そうだった。すっかり忘れていたな……)
航志朗は内ポケットから婚姻届を出してテーブルの上に広げた。渡辺は、「へえ、これが婚姻届か。初めて見たな」と腕を組んで感心した。
恵は婚姻届の証人の欄に丁寧にサインした。とても美しい字だ。そして、航志朗に向かって、「岸さん、安寿をどうかよろしくお願いいたします」と言って、航志朗に深々と頭を下げた。ラウンジのカーペットに恵の涙がぽたぽたと落ちた。渡辺は、「あーあ、恵ちゃん、また泣いちゃったの?」と言って、ハンカチで頬を拭いて、恵の肩を抱いた。そして、恵と渡辺は客室へ向かうエレベーターの方へと去って行った。