今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第2節
清華美術大学の後期が始まった。一限から講義がある安寿は早めに大学にやって来た。隣には航志朗もいる。航志朗はなんとか仕事のスケジュールを調整して、あと三日間だけ休暇を延長した。大学で安寿が黒川と再びまみえるのを心配したからだ。
この数日間、安寿がよく眠れなかったことを航志朗は知っている。岸家に帰ってから、安寿はこの一年間滞っていたクルルの美術館に送る牛の絵を猛烈に描いていた。「前金でクルルから報酬を振り込まれているのに、ずっと待ってもらっていたから申しわけなくて」と安寿は言っていたが、明らかに大学に戻ることへの不安感を忘れるためだ。夜中にこっそりベッドから抜け出すと、安寿はタイルを並べたデスクに向かって懸命になって画筆をふるっていた。
ふいに後ろから安寿は声を掛けられた。
「安寿さん、久しぶり。……あ、岸さんもご一緒ですか!」
振り返ると爽やかな笑顔の大翔がそこに立っていた。航志朗は親しげに大翔に笑いかけた。
「久しぶりだね、大翔くん。莉子ちゃんは京都で元気にしてる?」
安寿の問いかけにうなずいた大翔はひそかに安堵した。
航志朗が大翔の肩に手を置いて言った。
「大翔くん、ご結婚おめでとう。昨日『菓匠はらだ』の本店に安寿と行ったんだけど、危うく莉子ちゃんのお父さんにお祝いを言いそうになってあせったよ」
苦笑いして安寿が航志朗を見上げた。航志朗も安寿に微笑み返した。仲の良いふたりの姿を見て、胸の内で大翔は確信した。
(やっぱり莉子の思い過ごしじゃないか。めっちゃ心配しているから、早く莉子に伝えよう)
一限が始まるまでまだ時間がある。三人は大学の中庭のベンチに腰掛けて、安寿と航志朗は、莉子と大翔の「親には内緒の新婚生活」の微笑ましくもスリリングな話を楽しく聞いた。明るい笑い声をたてた安寿の横顔を見て、航志朗は莉子と大翔に心から感謝した。
(もし莉子ちゃんが俺に伝えてくれなかったら、取り返しがつかないくらいのひどい結末を迎えていたのかもしれない。本当に莉子ちゃんにはどんなに礼を言っても言い足りないくらいだ。安寿は幸せだよな、あんなに大切に想ってくれる親友がいて)
ふと航志朗はしばらく会っていないアンとヴァイオレットの顔を思い浮かべた。
(そうだ。ローズとアイリスに何かプレゼントを買っていこう。もちろん安寿と一緒に選んで)
「安寿さーん!」とまた遠くから声を掛けられた。聞き覚えのある声に航志朗は振り返って言った。
「容じゃないか、久しぶりだな!」
「お、お久しぶりです、航志朗さん……」
一年ぶりに会った容は航志朗に気まずそうに会釈すると、切羽詰まった様子で話し出した。
「安寿さんは、もうご存じなんですよね?」
安寿は首をかしげて言った。
「……何をですか?」
目の前の容の険しい表情に、安寿は嫌な予感がしてきた。
「何って、安寿さん、知らないんですか? 突然、黒川教授が大学を休職されたんですよ!」
その瞬間、目の前が真っ黒になって、安寿の全身が冷たく硬直した。
抑えきれないいら立ちをにじませた口調で容が言った。
「もう黒川ゼミは騒然となっていますよ! 後期に入って卒制が大詰めを迎えるのに、全部丸ごと放り出された感じで」
みるみる顔色を青ざめて安寿は下を向いた。顔に暗い影を落として航志朗は安寿を見つめた。
「僕、何回も黒川教授に連絡を取っているんですけれど、全然つながらなくて。安寿さんか航志朗さん、何かご存じですか?」
急激に胸の鼓動が早まった安寿は息を荒くして、ブラックギンガムのブラウスの胸元をきつく握りしめた。
すぐに航志朗が答えた。
「いや、俺たちは何も知らない。しばらく彼に会っていないし」
目をすぼめて安寿が航志朗を見た。航志朗は安寿の小刻みに揺れる瞳を見て小さくうなずいた。
「そうですか。どうやら黒川ゼミの学生たちは日本画学科の他の教授のゼミに分散して合流するらしいんです。これからその発表が大学側からあるんです。僕、先に行きますね!」
容は安寿と航志朗に向かって会釈すると、急いで校舎に向かって走って行った。
その小さくなっていく容の後ろ姿を見送りながら安寿は思った。
(そうだ。千里さんにお礼を言わなくちゃ)
もうあの夜のことを二度と思い出さないと安寿は心のなかで固く決心していたが、どうしても黒川の最後に見た姿を鮮明に思い出してしまった。
(あのひと、いったいどうしたんだろう……)
急に黒川家での出来事が脳裏にフラッシュバックしてきて、安寿は顔をしかめて肩を震わせた。すぐに航志朗がそれに気づいて、安寿の肩をしっかりと抱いた。その隣で心配そうに大翔がふたりを見つめた。
この数日間、安寿がよく眠れなかったことを航志朗は知っている。岸家に帰ってから、安寿はこの一年間滞っていたクルルの美術館に送る牛の絵を猛烈に描いていた。「前金でクルルから報酬を振り込まれているのに、ずっと待ってもらっていたから申しわけなくて」と安寿は言っていたが、明らかに大学に戻ることへの不安感を忘れるためだ。夜中にこっそりベッドから抜け出すと、安寿はタイルを並べたデスクに向かって懸命になって画筆をふるっていた。
ふいに後ろから安寿は声を掛けられた。
「安寿さん、久しぶり。……あ、岸さんもご一緒ですか!」
振り返ると爽やかな笑顔の大翔がそこに立っていた。航志朗は親しげに大翔に笑いかけた。
「久しぶりだね、大翔くん。莉子ちゃんは京都で元気にしてる?」
安寿の問いかけにうなずいた大翔はひそかに安堵した。
航志朗が大翔の肩に手を置いて言った。
「大翔くん、ご結婚おめでとう。昨日『菓匠はらだ』の本店に安寿と行ったんだけど、危うく莉子ちゃんのお父さんにお祝いを言いそうになってあせったよ」
苦笑いして安寿が航志朗を見上げた。航志朗も安寿に微笑み返した。仲の良いふたりの姿を見て、胸の内で大翔は確信した。
(やっぱり莉子の思い過ごしじゃないか。めっちゃ心配しているから、早く莉子に伝えよう)
一限が始まるまでまだ時間がある。三人は大学の中庭のベンチに腰掛けて、安寿と航志朗は、莉子と大翔の「親には内緒の新婚生活」の微笑ましくもスリリングな話を楽しく聞いた。明るい笑い声をたてた安寿の横顔を見て、航志朗は莉子と大翔に心から感謝した。
(もし莉子ちゃんが俺に伝えてくれなかったら、取り返しがつかないくらいのひどい結末を迎えていたのかもしれない。本当に莉子ちゃんにはどんなに礼を言っても言い足りないくらいだ。安寿は幸せだよな、あんなに大切に想ってくれる親友がいて)
ふと航志朗はしばらく会っていないアンとヴァイオレットの顔を思い浮かべた。
(そうだ。ローズとアイリスに何かプレゼントを買っていこう。もちろん安寿と一緒に選んで)
「安寿さーん!」とまた遠くから声を掛けられた。聞き覚えのある声に航志朗は振り返って言った。
「容じゃないか、久しぶりだな!」
「お、お久しぶりです、航志朗さん……」
一年ぶりに会った容は航志朗に気まずそうに会釈すると、切羽詰まった様子で話し出した。
「安寿さんは、もうご存じなんですよね?」
安寿は首をかしげて言った。
「……何をですか?」
目の前の容の険しい表情に、安寿は嫌な予感がしてきた。
「何って、安寿さん、知らないんですか? 突然、黒川教授が大学を休職されたんですよ!」
その瞬間、目の前が真っ黒になって、安寿の全身が冷たく硬直した。
抑えきれないいら立ちをにじませた口調で容が言った。
「もう黒川ゼミは騒然となっていますよ! 後期に入って卒制が大詰めを迎えるのに、全部丸ごと放り出された感じで」
みるみる顔色を青ざめて安寿は下を向いた。顔に暗い影を落として航志朗は安寿を見つめた。
「僕、何回も黒川教授に連絡を取っているんですけれど、全然つながらなくて。安寿さんか航志朗さん、何かご存じですか?」
急激に胸の鼓動が早まった安寿は息を荒くして、ブラックギンガムのブラウスの胸元をきつく握りしめた。
すぐに航志朗が答えた。
「いや、俺たちは何も知らない。しばらく彼に会っていないし」
目をすぼめて安寿が航志朗を見た。航志朗は安寿の小刻みに揺れる瞳を見て小さくうなずいた。
「そうですか。どうやら黒川ゼミの学生たちは日本画学科の他の教授のゼミに分散して合流するらしいんです。これからその発表が大学側からあるんです。僕、先に行きますね!」
容は安寿と航志朗に向かって会釈すると、急いで校舎に向かって走って行った。
その小さくなっていく容の後ろ姿を見送りながら安寿は思った。
(そうだ。千里さんにお礼を言わなくちゃ)
もうあの夜のことを二度と思い出さないと安寿は心のなかで固く決心していたが、どうしても黒川の最後に見た姿を鮮明に思い出してしまった。
(あのひと、いったいどうしたんだろう……)
急に黒川家での出来事が脳裏にフラッシュバックしてきて、安寿は顔をしかめて肩を震わせた。すぐに航志朗がそれに気づいて、安寿の肩をしっかりと抱いた。その隣で心配そうに大翔がふたりを見つめた。