今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
ふたりが顔を上げると、そこに古閑一誠が立っていた。古閑が隣にいる男女の学生たちに外国語で話しかけると、二人の学生たちはうなずいてカフェテリアを出て行った。不思議そうに安寿は二人の学生を目で見送った。
それを見た航志朗がなにげなく言った。
「中国語で『知り合いに会ったから、先に研究室に戻っていてください』って」
「航志朗さんって、中国語もわかるんですか!」
「まあな。多民族社会とはいっても、シンガポール人の約七割が中国系だ。アンとヴィーも中国系だから、一緒にいれば自然に話せるようになる」
(外国語を「自然に話せるようになる」って、本当なの? それって、航志朗さんが優秀だからじゃないの)
改めて安寿は航志朗に感心した。
空いていた椅子に座って古閑が親しげに話しかけてきた。
「おふたりとも、お久しぶりですね。一年ぶりですか。なかなか大学でお会いできませんね、安寿さん」
安寿は苦笑いした。
「まあ、僕は清美大で三コマしか担当していませんから、週一回しかこちらには来ませんしね」
航志朗が古閑に尋ねた。
「三コマですか?」
「ええ。中国語が二コマと中国美術史です」
「そうですか」
「それよりも、おふたりは、ルリお義姉さまたちのことをうかがっていらっしゃいますか?」
その名前を耳にして安寿は胸がどきっとした。
(そうだ。ルリさんとアカネさん姉妹は、私と血が繋がった方々なのかもしれないんだ)
安寿の様子を一瞬心配そうに見てから航志朗が言った。
「いいえ、昨年の夏以来ごぶさたしてしまっていて。何かございましたか?」
なぜか古閑は人懐っこいしわを目尻に寄せていたずらっぽく笑った。その裏表のない笑顔に、この男は安寿と古閑家との秘められた関係について何も知らないのだという確信を航志朗は持った。
もったいぶった様子で古閑は顔をほころばせながら話した。
「おふたりとも驚かないでくださいね。実はですね、先月、ルリお義姉さまと五嶋さんが、なんと……、ご結婚されまして!」
目を大きく見開いて安寿と航志朗は顔を見合わせた。にっこりと満足そうに微笑んで古閑は話を続けた。
「とはいっても、籍は入れない事実婚です。五嶋さんは亡くなったお義兄さまと同い年で、彼もまた義父に見込まれて東京の大学に進学することを強く勧められていたんですけれど、それをきっぱりと断って地元の大学で学ばれました。五嶋さんは大学在学中から古閑家で義父の秘書をされていて、義父が亡くなってからも古閑家に残って、ずっとルリお義姉さまの身の回りのお手伝いをされてきました。さて、……どうしてだかわかりますか、安寿さん?」
まさにベテラン講師らしい口調で古閑は尋ねた。
安寿が遠慮がちに小声で言った。
「五嶋さんは、ずっとルリさんが好きだったから」
「はい。大正解です、安寿さん。五嶋さんは、子どもの頃からの初恋をとうとう実らせたんですよ。……約四十年間の片想いをね」
頬を紅潮させて安寿が言った。
「そうだったんですか。私、ルリさんと五嶋さんにお祝いを申しあげたいです、古閑先生」
「安寿さん、僕に『先生』は不要ですよ。それに、今、おふたりは熊本にいないんです」
「えっ、どちらにいらっしゃるんですか?」
「フィンランドです。なんでも長らく懇意にされていたヘルシンキのギャラリーのオーナーに、しばらくこちらに滞在して絵を描かないかとお誘いを受けていたそうで、この機会にと一週間前に旅立たれました」
「フィンランドですか……」
内心で安寿は少しほっとしていた。ルリに借りた一度も会ったことがない亡父の油絵具の道具箱をどうしようかと考えあぐねていたからだ。あの道具箱は数回使っただけで岸家の自室のクローゼットの奥にしまったままだ。古閑康生が自分の実の父親だとわかった今、その道具に手を触れるのは安寿にとっては酷なことだ。
腕を組んだ航志朗はひそかに思った。
(近いうちに一人でルリさんを訪ねて、いろいろ訊こうと考えていたんだが。……フィンランドか)
古閑は立ち上がって言った。
「それではこれで失礼します。留学生たちが待っていますので。では、またお会いしましょう」
安寿と航志朗も立ち上がってお辞儀をした。手を振って去って行く古閑を見送りながら、安寿はひとりごとのようにつぶやいた。
「本当によかったですね、ルリさんと五嶋さん……」
複雑な表情を浮かべて航志朗は安寿を見つめた。
それを見た航志朗がなにげなく言った。
「中国語で『知り合いに会ったから、先に研究室に戻っていてください』って」
「航志朗さんって、中国語もわかるんですか!」
「まあな。多民族社会とはいっても、シンガポール人の約七割が中国系だ。アンとヴィーも中国系だから、一緒にいれば自然に話せるようになる」
(外国語を「自然に話せるようになる」って、本当なの? それって、航志朗さんが優秀だからじゃないの)
改めて安寿は航志朗に感心した。
空いていた椅子に座って古閑が親しげに話しかけてきた。
「おふたりとも、お久しぶりですね。一年ぶりですか。なかなか大学でお会いできませんね、安寿さん」
安寿は苦笑いした。
「まあ、僕は清美大で三コマしか担当していませんから、週一回しかこちらには来ませんしね」
航志朗が古閑に尋ねた。
「三コマですか?」
「ええ。中国語が二コマと中国美術史です」
「そうですか」
「それよりも、おふたりは、ルリお義姉さまたちのことをうかがっていらっしゃいますか?」
その名前を耳にして安寿は胸がどきっとした。
(そうだ。ルリさんとアカネさん姉妹は、私と血が繋がった方々なのかもしれないんだ)
安寿の様子を一瞬心配そうに見てから航志朗が言った。
「いいえ、昨年の夏以来ごぶさたしてしまっていて。何かございましたか?」
なぜか古閑は人懐っこいしわを目尻に寄せていたずらっぽく笑った。その裏表のない笑顔に、この男は安寿と古閑家との秘められた関係について何も知らないのだという確信を航志朗は持った。
もったいぶった様子で古閑は顔をほころばせながら話した。
「おふたりとも驚かないでくださいね。実はですね、先月、ルリお義姉さまと五嶋さんが、なんと……、ご結婚されまして!」
目を大きく見開いて安寿と航志朗は顔を見合わせた。にっこりと満足そうに微笑んで古閑は話を続けた。
「とはいっても、籍は入れない事実婚です。五嶋さんは亡くなったお義兄さまと同い年で、彼もまた義父に見込まれて東京の大学に進学することを強く勧められていたんですけれど、それをきっぱりと断って地元の大学で学ばれました。五嶋さんは大学在学中から古閑家で義父の秘書をされていて、義父が亡くなってからも古閑家に残って、ずっとルリお義姉さまの身の回りのお手伝いをされてきました。さて、……どうしてだかわかりますか、安寿さん?」
まさにベテラン講師らしい口調で古閑は尋ねた。
安寿が遠慮がちに小声で言った。
「五嶋さんは、ずっとルリさんが好きだったから」
「はい。大正解です、安寿さん。五嶋さんは、子どもの頃からの初恋をとうとう実らせたんですよ。……約四十年間の片想いをね」
頬を紅潮させて安寿が言った。
「そうだったんですか。私、ルリさんと五嶋さんにお祝いを申しあげたいです、古閑先生」
「安寿さん、僕に『先生』は不要ですよ。それに、今、おふたりは熊本にいないんです」
「えっ、どちらにいらっしゃるんですか?」
「フィンランドです。なんでも長らく懇意にされていたヘルシンキのギャラリーのオーナーに、しばらくこちらに滞在して絵を描かないかとお誘いを受けていたそうで、この機会にと一週間前に旅立たれました」
「フィンランドですか……」
内心で安寿は少しほっとしていた。ルリに借りた一度も会ったことがない亡父の油絵具の道具箱をどうしようかと考えあぐねていたからだ。あの道具箱は数回使っただけで岸家の自室のクローゼットの奥にしまったままだ。古閑康生が自分の実の父親だとわかった今、その道具に手を触れるのは安寿にとっては酷なことだ。
腕を組んだ航志朗はひそかに思った。
(近いうちに一人でルリさんを訪ねて、いろいろ訊こうと考えていたんだが。……フィンランドか)
古閑は立ち上がって言った。
「それではこれで失礼します。留学生たちが待っていますので。では、またお会いしましょう」
安寿と航志朗も立ち上がってお辞儀をした。手を振って去って行く古閑を見送りながら、安寿はひとりごとのようにつぶやいた。
「本当によかったですね、ルリさんと五嶋さん……」
複雑な表情を浮かべて航志朗は安寿を見つめた。