今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その夜、航志朗が風呂から戻って来ると、ベッドで横になった安寿はすでに深い眠りに落ちていた。安寿の規則的な寝息が聞こえてくる。きっと久しぶりに大学に行って疲れたのだろう。身をかがめて航志朗は安寿の唇にキスしようとしたが、直前で止めた。こんなに可愛らしい寝顔でぐっすりと眠っているのだ。絶対に起こすわけにはいかない。目を閉じた安寿を間近で見つめているだけで、航志朗の心は温かい喜びで満たされた。

 午後十一時前になると、ノートパソコンを抱えて航志朗は安寿の部屋をそっと出てサロンに向かった。そして、浅くソファに座り、パリの国立美術館でのオンライン会議にアクセスした。

 安寿は暗闇のなかで目を覚ました。手を伸ばしてベッドサイドテーブルに置いてある目覚まし時計を取って見ると、午前一時になっていた。隣にもベッドの下に敷かれた布団にも航志朗の姿がない。しばらく安寿の頭のなかはぼんやりとしていたが、急に言い知れない寂しさが胸に突き上げてきた。辺りを見回しながら、安寿は今にも泣き出しそうな声をあげた。

 「……航志朗さん、どこなの?」

 裸足のままでふらふらしながら真っ暗な岸家の二階の長い廊下を歩き、手すりを伝って階段を下りた。一階では、サロンのドアのすき間から微かに明かりがもれていた。安寿が静かにサロンのドアを開けると、フロアライトだけが灯った薄暗い部屋でブルーライトを浴びた航志朗がフランス語で何か話している。

 サロンのドアの前に立ったままで、安寿は航志朗の姿を黙って見つめた。今、確かに自分の目の前に航志朗がいるというのに、遠い遠い別世界にいるように見える。胸が張り裂けるほど哀しくなって、安寿の両頬に涙がとめどなく流れ始めた。大粒の涙のしずくがぽたぽたと音を立てて安寿の裸足の上にこぼれ落ちた。

 ふと航志朗が顔を上げると、ドアの前で安寿が泣きながら立っている姿が目に入った。その瞬間、航志朗は日本語もフランス語もすべての言葉を失った。すぐにノートパソコンの画面の向こうから『ネットの不具合か、コーシ?』と呼びかけられた。航志朗の発言が急に止まったからだ。それに構わず航志朗はカメラをオフにして音声をミュートにすると、安寿のもとに駆け寄ってきつく抱きしめた。

 「安寿、どうした? 怖い夢でも見たのか」

 安寿は涙で濡れた顔を航志朗の胸に押しつけて力いっぱいしがみついた。微かな声で安寿が何かを言った。

 「ん? もう一回言ってくれ、安寿。よく聞こえなかった」

 すすり泣きながら安寿は小声で言った。

 「夜中に起きたら、隣に航志朗さんがいなかったから……」

 「そうか。ごめん、安寿。今夜はオンライン会議があるって、前もって伝えておくべきだった」

 航志朗は安寿の肩を抱いてソファに連れて行き、膝の上にのせて抱きしめた。

 「安寿、あと少しで会議が終わる。もうちょっと、このままで待ってて」

 安寿は航志朗の膝の上で、小さな子どものように航志朗にしがみついた。航志朗は安寿の頬にキスしてから、カメラはオフのままでミュートの方だけを解除して会議に再び参加した。

 しばらくすると急に安寿が重くなった。航志朗が安寿の顔をのぞき込むと、安寿は穏やかな表情を浮かべて眠っていた。まもなく会議は終了した。ひと息ついた航志朗はそのままの姿勢で安寿を抱きしめながらソファに横になった。時刻は午前二時を過ぎている。安寿の柔らかい温もりが航志朗の眠気を誘う。安寿の部屋に戻ることを考える(いとま)もなく、航志朗は目を閉じた。

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