今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 午前八時半を過ぎて、息を切らせながら咲は岸家の勝手口の鍵を開けて中に入った。額に汗を浮かべて咲はあわてていた。珍しく一時間も朝寝坊したのだ。実は昨日の夜遅くまで往年の恋愛映画を観ていたのだ。咲が起こさないと絶対に起きない伊藤ももちろん一緒に寝坊した。

 (たいへん! 航志朗坊っちゃんもいらっしゃるというのに、もう私ったら!)

 咲は台所に駆け込んで急いで米を研いで浸水すると、食事室を通って真っ暗なサロンに入り、一時間遅れだがいつものようにカーテンを開けた。朝日が差し込んで明るくなったサロンを見て咲は飛び上がった。大声をあげそうになったが、なんとか両手で口を押さえて事なきを得た。

 咲の目の先にあるソファの上で、安寿と航志朗が互いに腕を回してしっかりと抱き合ったままぐっすりと眠っている。安寿はパジャマ姿で航志朗の胸に顔をうずめて、航志朗は上にシャツを着て下は薄手のスウェットを穿いて、安寿の身体に両手も両足も絡めている。

 顔を真っ赤にさせて咲はあたふたした。目の前のふたりの姿が生なましくて、つい見入ってしまう。昨夜の恋愛映画の続きを見ているようだ。咲は小走りで客間に行き、タオルケットを持って来てふたりに掛けた。九月に入ってからもまだ残暑が続いているが、このままでは目に毒だ。気持ちよさそうに仲良く眠っているふたりを起こすわけにもいかない。咲は伊藤がサロンにやって来ないことを心から祈った。

 そこへ伊藤ではなく岸が食事室のドアから入って来た。胸がどきっとして咲はまた飛び上がりそうになった。

 「おはようございます、咲さん」

 いつものように岸は咲に穏やかにあいさつをした。

 「お、おはようございます、だ、だんなさま!」

 咲のいつもと違う様子に気づいた岸が不思議そうに尋ねた。

 「どうかされましたか、咲さん?」

 「あ、あの……」

 何も言い出せずに咲は下を向いた。

 ローテーブルの上の開いたままのノートパソコンを見てから、岸はソファで抱き合って眠っている安寿と航志朗に気づいた。咲はばつが悪い顔を浮かべて、そっと岸の顔色をうかがった。

 「あの、だんなさま……」

 「咲さん、これからハーブの水やりをしてきます。一時間後に朝食をお願いします」

 いつもの朝と同じように岸は平然として言った。まったく安寿と航志朗の姿が目に入っていないかのようだった。

 「は、はい。かしこまりました、だんなさま……」

 恐縮した咲の目の前で、岸は静かにサロンを出て行った。

 食事室の奥から声が聞こえてきた。

 「咲、サロンにいるのか?」

 伊藤の声だ。

 あわてて咲は食事室に向かった。もちろんサロンへ入るドアは後ろ手にしっかりと閉めた。いつものように伊藤がサロンに入ろうとしたが、咲は伊藤のドアノブを握る手を押さえて小声で言った。

 「秀爾さん、今は入ってはだめですよ」

 伊藤は首をかしげた。

 「どうしてなんだ?」

 「安寿さまと航志朗坊っちゃんが、まだ眠っていらっしゃるんです」

 「サロンで?」

 恥ずかしそうに頬を赤らめて咲はうなずいた。すべてを承知した伊藤は深いため息をついた。

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