今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 結局、その日も安寿と航志朗は一緒に大学に行った。安寿が講義を受けている間、航志朗は大学のフリースペースのすみでノートパソコンを広げて仕事をしていた。幾度となく女子大生たちが送ってくる媚びた視線を感じたが、いら立ちながら完全に無視した。そんなことはまったくどうでもいい。

 昼休みは中庭で大翔と待ち合わせて三人で昼食をとった。三人とも弁当だ。一人暮らしの大翔が自分でつくった弁当を持って来ていることに、航志朗は感心した。大翔は少しでも食費を節約してアルバイト代を貯金に回していると言ってから、「僕、大食いだから食費が結構かかるんですよ」と恥ずかしそうに笑った。

 昼食後、大翔と別れて安寿は油絵学科のアトリエに行った。どうしても気になった航志朗は安寿に内緒でアトリエを見に行った。十数名の学生たちがイーゼルにキャンバスを立てかけて、それぞれの作品に向かい合っていた。窓際の椅子に目をしょぼしょぼさせた小柴が座っているのも見えた。そして、安寿が油絵具を使って熱心に何かを描いている後ろ姿を見つけて、とりあえず航志朗は安堵した。

 安寿は今年の夏休みの自由課題が提出できなかった。その課題は秋の学内展覧会に出展される作品になるはずだった。安寿は小柴に夏休み中ずっと体調不良で作品に取り組めなかったと相談して、今年の学内展覧会に作品を出展することを断念していた。

 「ん?」

 思わず航志朗は声を出した。安寿の右隣にいる髪を染めた今風な男子学生が笑いながら安寿に何か話しかけている。安寿はその男子学生に向かって微笑みながら何かを答えていた。航志朗はむすっと顔をしかめた。今度は、左隣に座って風景画を描いている眼鏡をかけた男子学生が安寿に話しかけた。安寿は右隣の男子学生と一緒にその男子学生に向かって笑った。そこには、航志朗の知らない大学での安寿の姿があった。どうしようもなく航志朗の心はかき乱された。今すぐにでも安寿をつかまえて、二人だけしかいない場所に連れて行きたいとつい思ってしまい、航志朗は苦笑いした。

 フリースペースに戻りながら航志朗は思った。

 (とにかく今日は金曜日だし、明日の昼すぎには空港に向かわなければならないから、今夜は絶対にマンションの方に安寿を連れて行く。ふたりきりで過ごすために)

 午後の実技を終えた安寿が航志朗のところにやって来た。さっそく航志朗がノートパソコンを片づけようとすると、言いづらそうに安寿が言った。

 「あの、航志朗さん。私、まだ帰れないんですけれど」

 「このあとも何かあるのか、安寿?」

 「はい。これから大教室で大学の就職課が主催の就職ガイダンスがあるんです」

 「『就職ガイダンス』? 安寿、まったく君には必要ないだろ」

 うつむいて安寿が小声だが強い口調で言った。

 「……必要、です」

 「そうか。じゃあ、俺も君と一緒に聴いてもいいだろ?」
 
 無言で安寿はうなずいた。

 大教室の一番後ろの席に安寿と航志朗は座った。後から大翔もやって来て安寿の隣に座った。安寿も大翔も熱心にメモをとっていたが、航志朗にとっては退屈極まりないガイダンスだった。最近の就職状況の説明から始まって、就職活動における心構え、エントリーシートの書き方、面接の受け方など次々に大学の就職課の職員が説明していった。頬杖をつきながら、航志朗は安寿の真剣な横顔を見つめた。

 (本気で安寿はどこかの企業に就職するつもりなのか? それって、俺から離れるために?)

 思わず航志朗は頭を抱えた。その後も延々とガイダンスは続いた。

 「僕、これからバイトなんです。それでは失礼します、安寿さんと岸さん」

 そう言うと軽く会釈して大翔は大教室を走って出て行った。

 「俺たちも帰るか」

 素直に安寿はうなずいた。

 「いったん岸家に帰ってから、マンションに行こう、安寿」

 一瞬、当惑したように航志朗を見てから仕方なく安寿はうなずいた。

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