今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
航志朗はバスルームから戻って来ると、何も言わずに二階に行った。交替で安寿は風呂に入った。あの夜以来、服を脱ぐ時に身体がどうしても震えてしまう。なんとかブラウスのボタンを外してバスタブに浸かる。長風呂をしていたのは、遠い昔の楽しかった思い出のようだ。裸でいるとすぐに底知れぬ恐怖心がわいてくる。胸の鼓動が早くなって呼吸が苦しくなる。どうしても自分の裸が見られない。
(きっと私の肌は真っ黒に汚れている……)
きつく目を閉じたまま、安寿は手探りで自分の身体を石鹸で洗った。どんなに洗っても洗っても、骨の髄まで染み込んだ汚れは落ちないだろう。こんな状態を絶対に航志朗には伝えられない。ましてやこんなにも汚れた身体で航志朗と抱き合うなんて、もう一生できないだろう。
固く目を閉じて自分でつくった暗闇のなかで安寿はバスタブに浸かっている。
(私の汚れた身体から真っ黒な液体がにじみ出てきて、どんどんそれはバスタブの中のお湯をにごらせていっているんだ……)
自ら汚した真っ黒な湯の奥底に身体が沈み込んでいくのを感じながら安寿は思った。
(一生、私はひとりぼっちだ。……私の子どもにも会えずに)
航志朗には先に眠っていてほしいと願いながら、安寿は階段を上って行った。ベッドルームのドアを開けると、フットライトだけが灯った薄暗い部屋で航志朗がベッドに腰掛けて頭を抱えていた。安寿は一瞬目を閉じて深呼吸した。そして、航志朗の前に立った。航志朗が安寿に気づいて顔を上げると、安寿は静かに言った。
「航志朗さん、私に背中を向けて横になってください」
航志朗は安寿の言う通りにした。大きな航志朗の背中が安寿の目の前に横たわった。安寿は航志朗にタオルケットを掛けて、その隣に横になった。そして、後ろから航志朗を抱きしめた。安寿は航志朗の背中の温もりと匂いを身体じゅうで感じた。ずっとずっとこの感覚を覚えていたいと願った。航志朗は背中に求めてやまない安寿の身体を感じてたまらない気持ちになった。我慢できずに向き直ろうとすると、安寿が鋭い声で叫んだ。
「動かないで!」
航志朗の動きが止まった。
また安寿が言った。今度は懇願するような声音で。
「このままでいてください。お願いだから……」
航志朗は両手のこぶしを握りしめて言った。
「わかった。……安寿」
しばらく航志朗は息を押し殺して安寿の動向をうかがった。じわじわと背中が湿っていくことに航志朗は気づいた。安寿はひとしきり航志朗の背中で泣くと、航志朗の背中に顔を押しつけたまま静かになった。航志朗が下を見ると安寿の左手を見つけた。そっと両手で包み込む。その冷えきった手に氷のように冷たい結婚指輪がはめられているのを感じる。その瞬間、航志朗は思い知らされた。
(もしかして、俺が安寿を不自由にさせているのか? 「結婚」という足枷を無理やり彼女の両足にはめて、地上に縛りつけて)
だが、航志朗は安寿の手を離せなかった。すがるように航志朗は安寿の左手を握り続けた。
(それでも、俺はずっと安寿と一緒にいたい。心の底から俺は彼女を愛している。絶対に離れられない。安寿は、今の俺にとって、生きる証そのものだから)
(きっと私の肌は真っ黒に汚れている……)
きつく目を閉じたまま、安寿は手探りで自分の身体を石鹸で洗った。どんなに洗っても洗っても、骨の髄まで染み込んだ汚れは落ちないだろう。こんな状態を絶対に航志朗には伝えられない。ましてやこんなにも汚れた身体で航志朗と抱き合うなんて、もう一生できないだろう。
固く目を閉じて自分でつくった暗闇のなかで安寿はバスタブに浸かっている。
(私の汚れた身体から真っ黒な液体がにじみ出てきて、どんどんそれはバスタブの中のお湯をにごらせていっているんだ……)
自ら汚した真っ黒な湯の奥底に身体が沈み込んでいくのを感じながら安寿は思った。
(一生、私はひとりぼっちだ。……私の子どもにも会えずに)
航志朗には先に眠っていてほしいと願いながら、安寿は階段を上って行った。ベッドルームのドアを開けると、フットライトだけが灯った薄暗い部屋で航志朗がベッドに腰掛けて頭を抱えていた。安寿は一瞬目を閉じて深呼吸した。そして、航志朗の前に立った。航志朗が安寿に気づいて顔を上げると、安寿は静かに言った。
「航志朗さん、私に背中を向けて横になってください」
航志朗は安寿の言う通りにした。大きな航志朗の背中が安寿の目の前に横たわった。安寿は航志朗にタオルケットを掛けて、その隣に横になった。そして、後ろから航志朗を抱きしめた。安寿は航志朗の背中の温もりと匂いを身体じゅうで感じた。ずっとずっとこの感覚を覚えていたいと願った。航志朗は背中に求めてやまない安寿の身体を感じてたまらない気持ちになった。我慢できずに向き直ろうとすると、安寿が鋭い声で叫んだ。
「動かないで!」
航志朗の動きが止まった。
また安寿が言った。今度は懇願するような声音で。
「このままでいてください。お願いだから……」
航志朗は両手のこぶしを握りしめて言った。
「わかった。……安寿」
しばらく航志朗は息を押し殺して安寿の動向をうかがった。じわじわと背中が湿っていくことに航志朗は気づいた。安寿はひとしきり航志朗の背中で泣くと、航志朗の背中に顔を押しつけたまま静かになった。航志朗が下を見ると安寿の左手を見つけた。そっと両手で包み込む。その冷えきった手に氷のように冷たい結婚指輪がはめられているのを感じる。その瞬間、航志朗は思い知らされた。
(もしかして、俺が安寿を不自由にさせているのか? 「結婚」という足枷を無理やり彼女の両足にはめて、地上に縛りつけて)
だが、航志朗は安寿の手を離せなかった。すがるように航志朗は安寿の左手を握り続けた。
(それでも、俺はずっと安寿と一緒にいたい。心の底から俺は彼女を愛している。絶対に離れられない。安寿は、今の俺にとって、生きる証そのものだから)