今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿は航志朗のマンションを後にした。今日は土曜日だ。岸のモデルにはもう二か月近くもなっていない。きっと岸はアトリエで今もキャンバスに向かい合っているはずだ。マウンテンリュックサックを背負った安寿は小走りで地下鉄の駅に向かった。

 岸家に戻ったのは午後三時だった。すぐに安寿はアトリエに向かった。ドアをノックすると、「どうぞ」という岸の声が聞こえた。一瞬、アトリエのドアを開けるのを安寿はためらった。岸の声がいつもと違う感じがしたのだ。

 アトリエに入るとキャンバスに向かっている岸の後ろ姿が目に入った。

 「岸先生、ただいま帰りました」

 そう言うと、安寿は岸に向かってお辞儀をした。

 岸はパレットと画筆を持ったまま振り返って安寿に言った。

 「おかえりなさい、安寿さん。航志朗は?」

 「先ほど、パリに向かわれました」

 隠しきれずに安寿の表情がわずかに曇った。

 「そうですか」

 岸はキャンバスに向き直ってまた画筆をふるった。

 二か月ぶりに足を踏み入れたアトリエを見回して、安寿は声をあげそうになった。そこにはたくさんの新作の風景画が並んでいた。様ざまなサイズで一部はすでに額装されていた。

 「こんなにたくさん……」

 思わず安寿は声に出してつぶやいた。

 岸は画筆を動かしながら明るく笑って言った。

 「ここのところ、身体の調子がいいんですよ。お待たせしてしまっていた国内のお客さまへの納品がはかどってほっとしています。実は、年内に久々の個展を開こうと思っています」

 精力的な岸の様子になぜか胸の奥がもやもやとしたが、岸の背中を見ながら安寿は言った。

 「岸先生、作品を見せていただいてもよろしいでしょうか」

 「もちろんですよ、安寿さん。ぜひご感想をお聞かせください」

 岸が盛んにキャンバスに走らせる画筆の音を聞きながら、安寿は岸の作品を一枚一枚丁寧に見て回った。顧客からの注文通りの絵なのだろう。明るい色彩で彩られた穏やかな風光に恵まれた光景や、誰もが好印象を持つ丁寧に描かれたまさに写真そのもののような風景だ。本当に美しい絵だと言える。だが、安寿にはどうしてもその岸の絵に空虚感を感じてしまう。

 (この絵のなかに岸先生ご自身が見えない。きっと岸先生は自分の個性を失くして描いていらっしゃるんだ。それが意図的なのか無意識なのかはわからないけれど)

 正直に言って感想も何もない。安寿はただひとこと「ありがとうございました」とだけ言った。個展が開催されるまで当分モデルの仕事はないのかもしれないと、ひそかに安寿は思った。

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