今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
その時だった。岸が描きかけのキャンバスをイーゼルから外して脇に立て掛けると、かわりにスケッチブックを持って来て立て掛けた。それは七月の大学が夏休みに入る前まで安寿を描いて試行錯誤を繰り返していたスケッチブックだ。岸は最後に残った真っ白いページを開いて安寿に言った。
「安寿さん。さっそくですが、これからモデルをお願いしてもよろしいでしょうか?」
「は、はい。岸先生……」
予想外の岸の言葉に安寿はうろたえた。いつもモデルになる時に座っている肘掛け椅子には額装されたキャンバスが置かれていた。岸は困惑した安寿の手を取ってカウチソファに連れて行った。いきなり岸に手を握られて安寿は胸をどきっとさせた。それはとても温かい手だった。航志朗のひんやりと冷たい手とは違う。
その時、安寿はあることに気がついて目を見開いた。
(そういえば、航志朗さんの手、とても温かかった。今までずっと冷たかったのに、冷たくなかった。彼の唇も。いつからだった? きっと、黒川家から帰って来た時から)
ぼんやりとした安寿に岸が首を傾けて尋ねた。
「安寿さん、どうかされましたか?」
「い、いえ、大丈夫です。……すいません、岸先生」
しばらく岸はその琥珀色の瞳で安寿を見つめると、カウチソファの上で膝立ちをするようにうながした。安寿は岸の言葉に素直に従った。岸はうなずくと声を高揚させていった。
「そうです、安寿さん。その姿勢で、両手を空に向かって差し出していただけませんか」
両膝がふらついたが、なんとか安寿は手を上に伸ばした。
「そうです、安寿さん。そのポーズです!」
岸はうわずった声で言うと、急いでイーゼルをカウチソファの前に移動させて鉛筆を握った。
不意に安寿は岸のモデルになった。今まで感じたことがないくらいの熱いまなざしで岸は安寿を見つめている。かなりつらいポーズだ。足はしびれてくるし、腕もこらえきれずに動いてしまう。この調子では、この体勢で長時間いられないだろう。だが、安寿はなんとかこらえた。ずっと体調を崩していた岸が、やっと作品の制作に再び取り組めるようになったのだ。
(私、岸先生のお役に立ちたい……)
その一途な想いだけが安寿を支えた。気を緩められないポーズは安寿の意識をすべて目の前の岸へと向かわせた。他のことはまったく考えられない。ポーズがぶれるからだ。
しばらくすると岸は描く手を止めて言った。
「安寿さん、休憩しましょう。そのポーズはかなりきついはずです」
安寿はがくっとカウチソファにしゃがみこんだ。じんじんと太ももと腕がしびれている。久しぶりに膝にも違和感がある。安寿は左膝をそっとなでた。思わず胸のかたすみが切なくなるのを感じる。もうあの時の傷あとはない。だが、そこには目に見えないしるしがある。絶対に忘れられない航志朗との思い出のしるしだ。
(もし、あの時、あの場所でけがをしていなかったら、いったい私たちはどうなっていたのだろう。もしかしたら、彼と結婚しなかったのかもしれない。そして、彼を好きにならなかったのかもしれない)
すぐに安寿は頭のなかでそれを打ち消した。
(それは違う。けがは関係ない。あの時、すでに私は彼が好きだった。たぶん初めて会った時から。小さな女の子だった私は、彼に自分で描いた絵を手渡した。ちゃんと裏に名前を書いて。またいつかどこかで会えますようにって、願いを込めて)
急に目の奥が熱くなったが、目を固く閉じて安寿はなんとかやり過ごした。
岸が眉をひそめて安寿に言った。
「安寿さん、やはりあのポーズはおつらいですか?」
「いえ、大丈夫です。続けましょう、岸先生」
安寿は立膝をして、両手をある方向へ向かって差し出した。
──空の彼方へ旅立った航志朗に向かって。
(私、あなたを心から愛しています。……航志朗さん)
「安寿さん。さっそくですが、これからモデルをお願いしてもよろしいでしょうか?」
「は、はい。岸先生……」
予想外の岸の言葉に安寿はうろたえた。いつもモデルになる時に座っている肘掛け椅子には額装されたキャンバスが置かれていた。岸は困惑した安寿の手を取ってカウチソファに連れて行った。いきなり岸に手を握られて安寿は胸をどきっとさせた。それはとても温かい手だった。航志朗のひんやりと冷たい手とは違う。
その時、安寿はあることに気がついて目を見開いた。
(そういえば、航志朗さんの手、とても温かかった。今までずっと冷たかったのに、冷たくなかった。彼の唇も。いつからだった? きっと、黒川家から帰って来た時から)
ぼんやりとした安寿に岸が首を傾けて尋ねた。
「安寿さん、どうかされましたか?」
「い、いえ、大丈夫です。……すいません、岸先生」
しばらく岸はその琥珀色の瞳で安寿を見つめると、カウチソファの上で膝立ちをするようにうながした。安寿は岸の言葉に素直に従った。岸はうなずくと声を高揚させていった。
「そうです、安寿さん。その姿勢で、両手を空に向かって差し出していただけませんか」
両膝がふらついたが、なんとか安寿は手を上に伸ばした。
「そうです、安寿さん。そのポーズです!」
岸はうわずった声で言うと、急いでイーゼルをカウチソファの前に移動させて鉛筆を握った。
不意に安寿は岸のモデルになった。今まで感じたことがないくらいの熱いまなざしで岸は安寿を見つめている。かなりつらいポーズだ。足はしびれてくるし、腕もこらえきれずに動いてしまう。この調子では、この体勢で長時間いられないだろう。だが、安寿はなんとかこらえた。ずっと体調を崩していた岸が、やっと作品の制作に再び取り組めるようになったのだ。
(私、岸先生のお役に立ちたい……)
その一途な想いだけが安寿を支えた。気を緩められないポーズは安寿の意識をすべて目の前の岸へと向かわせた。他のことはまったく考えられない。ポーズがぶれるからだ。
しばらくすると岸は描く手を止めて言った。
「安寿さん、休憩しましょう。そのポーズはかなりきついはずです」
安寿はがくっとカウチソファにしゃがみこんだ。じんじんと太ももと腕がしびれている。久しぶりに膝にも違和感がある。安寿は左膝をそっとなでた。思わず胸のかたすみが切なくなるのを感じる。もうあの時の傷あとはない。だが、そこには目に見えないしるしがある。絶対に忘れられない航志朗との思い出のしるしだ。
(もし、あの時、あの場所でけがをしていなかったら、いったい私たちはどうなっていたのだろう。もしかしたら、彼と結婚しなかったのかもしれない。そして、彼を好きにならなかったのかもしれない)
すぐに安寿は頭のなかでそれを打ち消した。
(それは違う。けがは関係ない。あの時、すでに私は彼が好きだった。たぶん初めて会った時から。小さな女の子だった私は、彼に自分で描いた絵を手渡した。ちゃんと裏に名前を書いて。またいつかどこかで会えますようにって、願いを込めて)
急に目の奥が熱くなったが、目を固く閉じて安寿はなんとかやり過ごした。
岸が眉をひそめて安寿に言った。
「安寿さん、やはりあのポーズはおつらいですか?」
「いえ、大丈夫です。続けましょう、岸先生」
安寿は立膝をして、両手をある方向へ向かって差し出した。
──空の彼方へ旅立った航志朗に向かって。
(私、あなたを心から愛しています。……航志朗さん)