今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 季節が進んで岸家の裏の森の樹々が色づいてきた。森の奥へと向かう小道を安寿はかさかさと音をたてて歩いていた。

 池のほとりにたどり着くと安寿はしゃがんで水面を見つめた。大学が後期に入ってから急に安寿は自由な時間が増えた。自分の時間が戻ってきたと言ってもいいかもしれない。黒川家に通わなくなったからだ。

 結局、黒川の休職の理由はわからずじまいだった。聞かないようにしても様ざまな噂や憶測が耳に入ってきた。どれもくだらないワイドショーのような内容だった。

 自分と黒川の血が繋がっているという事実が、まったく安寿には呑み込めなかった。そして、黒川は航志朗の従兄ではなく、父親違いの兄でもある。静かな灰色の水面を見つめていると、それらはまるで現実味のないおとぎ話のようだ。

 「ぜんぜん私には関係のないことだもの……」

 ぽつんと安寿は池にその言葉を落とした。

 十月の下旬に華鶴から安寿に画廊に来るようにと伊藤を通して連絡があった。華鶴と会うのは黒川家でのあの夜以来だった。どんな顔をして華鶴と会えばいいのかわからない。胸が早鐘を打つのを感じながら、大学の帰りに安寿は黒川画廊に寄った。

 一階では華鶴が立ったまま安寿を待っていた。画廊の内装は改装工事中で、透明なビニールシートを張ったがらんとした画廊の中に入ると、思わず安寿はぶるっと身震いした。あまりにも中が冷えきっていたからだ。安寿は華鶴の前に立つと、深々とお辞儀をして消え入るような声で言った。

 「ごぶさたしております、華鶴さん。あの、先日は本当にありがとうございました」

 何も言わずに華鶴は手を伸ばして安寿の頭を引き寄せた。安寿は目を大きく見開いた。華鶴の肌につけられた香水が鼻につく。思っていたよりもずっと華奢な細い肩に顔が触れた。

 華鶴は小声で安寿に尋ねた。

 「大丈夫だった、安寿さん?」

 下を向いたまま安寿はうなずいた。

 安寿と華鶴は四階のオフィスに行った。オフィスには伊藤がいて、温かい紅茶を淹れてくれた。ホワイトロールケーキもローテーブルに並んでいた。伊藤が近所の老舗パティスリーのこの秋の新作だと言った。口に入れるとふわふわの食感で濃厚なホワイトチョコレートの味がした。華鶴はケーキには手をつけずに紅茶だけ飲むと口を開いた。

 「安寿さん、あなたにお願いがあるの。来月に開催する宗嗣さんの個展の手伝いをしてほしいのよ。もちろん日給は出すわ。どうかしら?」

 突然の華鶴の提案に安寿はすぐに答えられなかった。「私なんかに務まりますでしょうか?」とだけ言った。それは安寿にとって精いっぱいの回答だった。もちろん、それとなく断るつもりだった。

 だが、華鶴は目を細めて言った。

 「あなたに務まるに決まっているでしょう。そう、インターンシップのつもりでいらっしゃいよ。もし、この画廊の仕事がお気に召したら、この画廊の仕事をしてみない、安寿さん?」

 (それって、私が黒川画廊に就職するっていうこと?)

 一瞬で安寿の顔は蒼白になった。奥で立ち聞きしていた伊藤が咳払いした。

 「優秀なあなたが私を手伝ってくれたら、新規事業の立ち上げも可能になるわ。ぜひ前向きに考えておいて。ね、安寿さん?」

 伊藤が運転する車の後部座席に座った安寿は、何回も華鶴の言葉を思い出してその意図を考えた。

 (「新規事業」? 華鶴さんが考えていらっしゃることが、全然わからない。私は、いずれ岸家から出て行かなくてはならないのに……)

 バックミラーに映ったうつむいた安寿の姿を伊藤が陰りのある表情で見つめた。

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