今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
安寿は一階の場違いなほどの華やかな雰囲気がどうにも落ち着かないので、奥の階段を上って二階の展示室に入った。二階でも数人の客がいて何やら声高に歓談している。その様子を見て安寿はひそかに思った。
(皆さん、作品に背を向けておしゃべりしている。作品を見ていないんじゃないのかな)
二階の岸の作品は、田舎の田園風景が中心で季節ごとに展示されている。安寿は一枚一枚丁寧に見ていった。
(誰もが好むような明るく柔らかい色彩。それに細密なタッチで描かれていて、本当に美しい写実画。だけど、なんだろう。無気力感というか、もの悲しさを感じる)
ここまで熱心に鑑賞してきて安寿は少し疲れを感じたが、せっかくなので常設の作品も見せてもらおうと思い立った。安寿は三階にも上がった。室内には誰もいない。華鶴の個人的なコレクションなのだろうか、華やかな静物画が品よく展示されていた。ひととおり目を通した安寿は息が詰まってきた。
(ここにはたくさんの素晴らしい作品が並んでいるけれど、私が好きだと思える絵はない。たぶんお金持ちの人たちが玄関とかリビングルームに飾るための絵画なのかも。いくらなのか見当もつかないけれど、とても高価そう)
ため息をついて恵のところに戻ろうとした時、安寿は窓際に置いてある猫足のついたダークブラウンの古いコンソールテーブルの上に、額装されていない油絵が置かれていることに気づいた。その油絵は遠目にぼうっと灰色に鈍く光っているように見える。吸い寄せられるように安寿はその絵に近づいた。そして内心ではいけないと思いつつも、思わず手に取ってしまった。
その油絵は夜の湖畔の風景が描かれているのだろうか、深い霧に覆われた暗い森のなかにたたずむ灰色の湖畔が描かれている。きわめてシンプルで見ようによっては無彩色のグラデーションだ。
安寿はしばらく呆然とその静謐な絵を見つめていた。
安寿はふと何かずっと忘れていた大切なことを思い出したような気がした。でも、それは思い出してはいけないものだ。思い出したら、きっと自分はそれにひどく傷つけられてしまうだろうという言い知れぬ恐怖がわいた。だが、同時に思った。この風景のなかに入って思いきり泣きたい。たくさん涙を流して、大きな泣き声をあげて。でも、あの日、安寿は外の世界では泣かないと心に決めた。それ以来、他人の前で泣いたことはない。
その時だった。突然、安寿は後ろから声をかけられた。
「その絵を気に入っていただけましたか?」
安寿は心臓が飛び上がるほど驚いて振り返った。
そこには、白髪交じりで長身の痩せた男が立っていた。影を失ってしまったかのようなとても静かなたたずまいだ。男は遠慮がちに安寿に尋ねた。
「よかったらどんなご印象を持たれたのか、うかがってもよろしいでしょうか?」
安寿はその男と目が合った。男の目の虹彩は琥珀色をしていて、その透き通った美しさに安寿の目は一瞬でとらえられた。男の方は安寿の目を見て少したじろぐような仕草をした。でもそれは一瞬のことだったので、安寿は気がつかなかった。男の瞳の色を見つめていると、自分でもよくわからない熱い感情があふれ出てきた。安寿は胸がどうしようもなく苦しくなった。なぜかこの見知らぬ男に、自分の想いを言葉にして伝えたいと安寿は心の底から願った。
「あの、もう会えないひとたちが、この湖畔にたたずんでいるような気がしました」
安寿は微かに震える声でやっと答えた。
その男は少し不思議そうな顔をした。
「もう会えないひとたち、ですか?」
「はい。……亡くなった母とか、祖父母とか」
思いがけない自分の言葉になぜか涙がこみあげてきて視界がにじんだ。もう抑えられない。涙が安寿の頬を伝った。でも、安寿は泣き声をあげない。だだ涙が頬を濡らすだけだ。そんな自分に戸惑いつつも安寿は思った。
(どうして、私は初めて会ったひとの前で泣いているの。どうして、私はこんなにも胸がしめつけられるの)
男は安寿の感情が落ち着くのを待つかのように、無言で安寿を見守った。それはあらかじめその男に予定された役割をただ全うしているだけのようにも見えた。
ふたりの間に静かな沈黙の時間が流れた。しばらくしてから男が言った。
「あなたに何かつらい出来事を思い出させてしまったようで、申しわけありません。よかったら、これを使ってください」
目を伏せた男は真っ白なハンカチを安寿に差し出した。だが、安寿は身体が硬直して受け取ることができない。そんな安寿の様子に気づいて、男は自ら安寿の涙をそっとぬぐってから、安寿の手にハンカチを握らせた。そして安寿を窓際の椅子に座らせると、「温かいお茶でもいかがでしょうか? ご用意いたしましょう」と言って男は奥に消えた。
湿ったハンカチを握りしめた安寿は、窓の外を見た。無機質なビルディングの連なりが見える。その連なりの小さなすき間にどんよりとした曇り空が見えた。
曇り空を薄い小さな影が横切っている。たぶん飛行機が飛んでいるのだ。あの飛行機はどこに向かっているのだろうかと、安寿はぼんやり考えた。
(皆さん、作品に背を向けておしゃべりしている。作品を見ていないんじゃないのかな)
二階の岸の作品は、田舎の田園風景が中心で季節ごとに展示されている。安寿は一枚一枚丁寧に見ていった。
(誰もが好むような明るく柔らかい色彩。それに細密なタッチで描かれていて、本当に美しい写実画。だけど、なんだろう。無気力感というか、もの悲しさを感じる)
ここまで熱心に鑑賞してきて安寿は少し疲れを感じたが、せっかくなので常設の作品も見せてもらおうと思い立った。安寿は三階にも上がった。室内には誰もいない。華鶴の個人的なコレクションなのだろうか、華やかな静物画が品よく展示されていた。ひととおり目を通した安寿は息が詰まってきた。
(ここにはたくさんの素晴らしい作品が並んでいるけれど、私が好きだと思える絵はない。たぶんお金持ちの人たちが玄関とかリビングルームに飾るための絵画なのかも。いくらなのか見当もつかないけれど、とても高価そう)
ため息をついて恵のところに戻ろうとした時、安寿は窓際に置いてある猫足のついたダークブラウンの古いコンソールテーブルの上に、額装されていない油絵が置かれていることに気づいた。その油絵は遠目にぼうっと灰色に鈍く光っているように見える。吸い寄せられるように安寿はその絵に近づいた。そして内心ではいけないと思いつつも、思わず手に取ってしまった。
その油絵は夜の湖畔の風景が描かれているのだろうか、深い霧に覆われた暗い森のなかにたたずむ灰色の湖畔が描かれている。きわめてシンプルで見ようによっては無彩色のグラデーションだ。
安寿はしばらく呆然とその静謐な絵を見つめていた。
安寿はふと何かずっと忘れていた大切なことを思い出したような気がした。でも、それは思い出してはいけないものだ。思い出したら、きっと自分はそれにひどく傷つけられてしまうだろうという言い知れぬ恐怖がわいた。だが、同時に思った。この風景のなかに入って思いきり泣きたい。たくさん涙を流して、大きな泣き声をあげて。でも、あの日、安寿は外の世界では泣かないと心に決めた。それ以来、他人の前で泣いたことはない。
その時だった。突然、安寿は後ろから声をかけられた。
「その絵を気に入っていただけましたか?」
安寿は心臓が飛び上がるほど驚いて振り返った。
そこには、白髪交じりで長身の痩せた男が立っていた。影を失ってしまったかのようなとても静かなたたずまいだ。男は遠慮がちに安寿に尋ねた。
「よかったらどんなご印象を持たれたのか、うかがってもよろしいでしょうか?」
安寿はその男と目が合った。男の目の虹彩は琥珀色をしていて、その透き通った美しさに安寿の目は一瞬でとらえられた。男の方は安寿の目を見て少したじろぐような仕草をした。でもそれは一瞬のことだったので、安寿は気がつかなかった。男の瞳の色を見つめていると、自分でもよくわからない熱い感情があふれ出てきた。安寿は胸がどうしようもなく苦しくなった。なぜかこの見知らぬ男に、自分の想いを言葉にして伝えたいと安寿は心の底から願った。
「あの、もう会えないひとたちが、この湖畔にたたずんでいるような気がしました」
安寿は微かに震える声でやっと答えた。
その男は少し不思議そうな顔をした。
「もう会えないひとたち、ですか?」
「はい。……亡くなった母とか、祖父母とか」
思いがけない自分の言葉になぜか涙がこみあげてきて視界がにじんだ。もう抑えられない。涙が安寿の頬を伝った。でも、安寿は泣き声をあげない。だだ涙が頬を濡らすだけだ。そんな自分に戸惑いつつも安寿は思った。
(どうして、私は初めて会ったひとの前で泣いているの。どうして、私はこんなにも胸がしめつけられるの)
男は安寿の感情が落ち着くのを待つかのように、無言で安寿を見守った。それはあらかじめその男に予定された役割をただ全うしているだけのようにも見えた。
ふたりの間に静かな沈黙の時間が流れた。しばらくしてから男が言った。
「あなたに何かつらい出来事を思い出させてしまったようで、申しわけありません。よかったら、これを使ってください」
目を伏せた男は真っ白なハンカチを安寿に差し出した。だが、安寿は身体が硬直して受け取ることができない。そんな安寿の様子に気づいて、男は自ら安寿の涙をそっとぬぐってから、安寿の手にハンカチを握らせた。そして安寿を窓際の椅子に座らせると、「温かいお茶でもいかがでしょうか? ご用意いたしましょう」と言って男は奥に消えた。
湿ったハンカチを握りしめた安寿は、窓の外を見た。無機質なビルディングの連なりが見える。その連なりの小さなすき間にどんよりとした曇り空が見えた。
曇り空を薄い小さな影が横切っている。たぶん飛行機が飛んでいるのだ。あの飛行機はどこに向かっているのだろうかと、安寿はぼんやり考えた。