今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 「ああ、これはアイルランドのアランセーターだよ。イギリスでずっと世話になっていた大家さんが俺のために編んでくれたんだ。大学院を修了してシンガポールに渡る前にプレゼントしてくれた。でも、残念ながら、常夏のシンガポールではセーターを着る機会はない。ずっとシンガポールの自宅のクローゼットにしまい込んで忘れていたんだけど……」

 そう言いかけると航志朗はつらそうに目を落とした。

 「……航志朗さん?」

 安寿は航志朗の陰った琥珀色の瞳を見つめた。

 「ミセス・キャサリン・リンチ。それが彼女の名前だよ。先週、キティはこの世を去った。九十二歳だった。実はパリからイギリスに行ってシンガポールに寄ってから帰って来たんだ。彼女は穏やかな微笑みを浮かべて眠っていたよ、永遠に」

 目を潤ませた航志朗を安寿はしっかりと抱きしめた。

 「今でもよく覚えているよ。キティは魔女が使うような大きなほうきを持ってアパートメントの庭を掃いていたんだ。そう、君がバスタブに浸かりながらいつも歌っているあの歌を口ずさみながら」

 安寿は航志朗の背中をゆっくりとさすりながら、航志朗の耳元で『ザ・ラスト・ローズ・オブ・サマー』を小さな声でハミングし始めた。それは泣いてぐずる赤ちゃんをなだめるために歌い聞かせる母親のような歌声だった。歌い終わると安寿は目を潤ませながら言った。

 「誰もがみんな、いつかこの世を去ってしまうんですよね。このままずっと変わらずにここにいられるような気がするけれど、いつか終わりが来る。そう思うと、本当に今を大切にしなくちゃって心から思います。何かと忙しい毎日に流されて、つい忘れてしまうけれど」

 安寿のその言葉を聞いて、航志朗は胸の痛みを感じながら思った。

 (心から俺もそう思う。そして、その想いは大切なひとの死を経験しないと出てこない)

 航志朗は安寿を仰ぎ見て言った。

 「本当に君の言うとおりだな」

 ふいに航志朗はうつむくと、珍しく恥ずかしそうな口ぶりで言った。

 「今を大切にしたいから、俺は君とキスしたい。今、ここで……」

 安寿は優しいまなざしで航志朗を見つめると、そっと航志朗にキスした。

 次の瞬間、堰を切ったように航志朗はきつく安寿を抱きしめて唇を重ねた。それは冷たい唇ではなかった。本当に温かい。血が通った航志朗の存在のすべてを感じる。安寿はその確かに温かい航志朗の唇の感触に涙腺をゆるめた。しばらく唇を合わせたまま抱き合ってから、航志朗が懇願するように言った。

 「安寿、これからマンションに行って、年明けまで二人きりで過ごそう。いいだろ?」

 小さく安寿はうなずいた。おおかた断られることを予想していた航志朗はほっとして、安寿の肩に腕を回した。

 「あの、航志朗さん。私、絵を描きたいんですけれど、マンションで描いてもいいですか?」

 「もちろんいいよ。着替えと一緒に絵の道具も持って行くといい」

 「はい、そうします。私、岸先生にお伝えしてきますね」

 安寿はベッドから腰を浮かした。

 航志朗は苦々しい表情を浮かべて冷たく言った。

 「それは必要ない」

 (どうしてなの? 航志朗さんのお父さんなのに)

 そのいっさいの表情を失ったかのような航志朗の横顔に、何も安寿は尋ねることができなかった。

 (いつも航志朗さんはご両親に対して、どうしてそんなにもよそよそしいんだろう……)

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