今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第5節
次の朝が来た。航志朗は目を覚ますと、目の前に安寿の長い黒髪がかかった背中が目に入って、心から安堵した。身体を重ねられなくても、一つのベッドの上で一緒に朝を迎えられた。それだけでじゅうぶんだと航志朗は自分に言い聞かせた。やがて、安寿が身動きして起き出したのがわかった。目を開けた安寿は振り返って航志朗を眉をひそめて見ると、言いづらそうに言った。
「おはようございます、……航志朗さん」
「おはよう、安寿」
航志朗は努めて明るい声を出した。
しばらくふたりは沈黙した。安寿は仰向けになって天井をぼんやり見上げたままだ。耐えきれなくなった航志朗が口を開いた。
「安寿、朝食にしようか?」
「はい。でも、食材がないから、お買い物に行かないと」
「そうだな。ネットでも頼めるけれど、外に出かけよう。そろそろ起きるか、安寿」
安寿はうなずいた。航志朗は安寿の手をそっと握って階段を下りた。素直に安寿も握り返してきた。また航志朗は少しだけほっとした。
ふたりはパジャマのままで咲が持たせてくれたクラッカーとチョコレートを口に入れた。チョコレートはベルギーから輸入された高級チョコレート専門店のものだ。朝からもったいないと思いながら、安寿はゆっくり口の中で溶かした。薫り高く上品な甘い味はもやもやした心持ちをひと時だけ忘れさせてくれる。
航志朗が淹れた紅茶を安寿は啜った。目の前を見ると航志朗も紅茶を飲んでいる。不思議そうに安寿が尋ねた。
「航志朗さん、コーヒーは飲まないんですか?」
ちらっと安寿を見て、航志朗は平然と言った。
「ああ、飲めなくなったんだ」
「ええっ? 本当ですか!」
航志朗は苦笑を浮かべて言った。
「君と同じだな、安寿」
わけがわからずに安寿は首を傾けた。
午後十時になると、安寿と航志朗は着替えて近所のスーパーマーケットに車で買い物に出かけた。スーパーマーケットの中にはクリスマスのデコレーションがあちらこちらに飾ってあった。それを見て安寿は気がついた。
(あれ? そういえば、今日って二十四日、クリスマスイブなんだ。すっかり忘れてた)
隣でカートを押す航志朗を見上げて安寿は言った。
「航志朗さん、クリスマスケーキを焼きましょうか。それに今夜はクリスマスらしいメニューにしましょうよ。私、がんばってつくりますね」
すぐに安寿の背中をぽんぽんとたたいて航志朗が言った。
「安寿、がんばってつくらなくていいよ。買っていけばいいじゃないか。クリスマスケーキなんて、ほら、そこらじゅうに売っている」
「いえ、私がつくりたいんです。航志朗さんが食べないんだったら、私、一人で全部食べますから」
あせった様子で航志朗が言った。
「そういう意味で言ったんじゃない。わかった。一緒につくろう」
ひそかに安寿は思った。
(だって、航志朗さんと一緒に過ごせる最後のクリスマスだから……)
なんだかんだで食材と雑貨をたくさん買い込んだ。安寿と航志朗はそれぞれ大きな紙袋を両手に提げて車に戻った。トランクに紙袋を収めて安寿を助手席に座らせると、何も言わずに航志朗はまたスーパーマーケットに走って行った。何か買い忘れたのかもしれないと安寿は思った。駐車場はたいへん混雑していて、ひっきりなしに車が行き交っている。
安寿がスマートフォンを操作して今夜の夕食のレシピを検索していると、航志朗が戻って来た。安寿は目をまん丸くさせた。航志朗は手に真っ赤なバラの大きな花束を抱えている。車に乗り込むと、航志朗は驚いた顔をしている安寿の膝の上にふわっと花束をのせて残念そうに言った。
「この倍の百本買いたかったけれど、今日はクリスマスイブだから、マックス五十本なんだそうだ」
「……五十本も! こんなにたくさんのお花をありがとうございます」
安寿はバラの花束に顔を近づけてその香りをかいだ。上質な大人の甘い香りがした。表情をゆるめながら航志朗は安寿を見つめてエンジンをかけたが、突然、身を乗り出して安寿の唇にキスした。目の前を通った家族連れに見られたのがわかって、すぐに安寿は下を向いた。
心から愉しそうに航志朗が言った。
「安寿、君が手に持ったバラの花も君の顔も真っ赤だな」
仏頂面をした安寿は航志朗を責めるように言った。
「もう、昼間からこんなところで!」
久しぶりに見た安寿の仏頂面に航志朗は胸を高鳴らせるが、即座に冷静さを装って反論した。
「まったく問題ないだろ。このエリアは各国の大使館が多いから、外国籍の人びとがたくさん住んでいる。さっきのスーパーだって多国籍の食材が並んでいただろ? ここでは他人の目の前でキスしたって、誰もなんとも思わない」
「でも、人前では恥ずかしいです!」
「じゃあ、人前じゃなかったら、いつでもどんなところでもいいんだな?」
「それは……」
安寿は言葉に詰まった。
車を運転しながら航志朗はつくづく思った。
(なんだか昔に戻ったみたいだな。婚姻届を提出したばかりの新婚の時に。いや、そもそも俺たちは本当に結婚していると言えるのか。安寿が俺を愛しているのか、彼女の本当の気持ちがわかっていないじゃないか……)
余計な思考に思い至ってしまった感じがして、航志朗は深くため息をついた。
「おはようございます、……航志朗さん」
「おはよう、安寿」
航志朗は努めて明るい声を出した。
しばらくふたりは沈黙した。安寿は仰向けになって天井をぼんやり見上げたままだ。耐えきれなくなった航志朗が口を開いた。
「安寿、朝食にしようか?」
「はい。でも、食材がないから、お買い物に行かないと」
「そうだな。ネットでも頼めるけれど、外に出かけよう。そろそろ起きるか、安寿」
安寿はうなずいた。航志朗は安寿の手をそっと握って階段を下りた。素直に安寿も握り返してきた。また航志朗は少しだけほっとした。
ふたりはパジャマのままで咲が持たせてくれたクラッカーとチョコレートを口に入れた。チョコレートはベルギーから輸入された高級チョコレート専門店のものだ。朝からもったいないと思いながら、安寿はゆっくり口の中で溶かした。薫り高く上品な甘い味はもやもやした心持ちをひと時だけ忘れさせてくれる。
航志朗が淹れた紅茶を安寿は啜った。目の前を見ると航志朗も紅茶を飲んでいる。不思議そうに安寿が尋ねた。
「航志朗さん、コーヒーは飲まないんですか?」
ちらっと安寿を見て、航志朗は平然と言った。
「ああ、飲めなくなったんだ」
「ええっ? 本当ですか!」
航志朗は苦笑を浮かべて言った。
「君と同じだな、安寿」
わけがわからずに安寿は首を傾けた。
午後十時になると、安寿と航志朗は着替えて近所のスーパーマーケットに車で買い物に出かけた。スーパーマーケットの中にはクリスマスのデコレーションがあちらこちらに飾ってあった。それを見て安寿は気がついた。
(あれ? そういえば、今日って二十四日、クリスマスイブなんだ。すっかり忘れてた)
隣でカートを押す航志朗を見上げて安寿は言った。
「航志朗さん、クリスマスケーキを焼きましょうか。それに今夜はクリスマスらしいメニューにしましょうよ。私、がんばってつくりますね」
すぐに安寿の背中をぽんぽんとたたいて航志朗が言った。
「安寿、がんばってつくらなくていいよ。買っていけばいいじゃないか。クリスマスケーキなんて、ほら、そこらじゅうに売っている」
「いえ、私がつくりたいんです。航志朗さんが食べないんだったら、私、一人で全部食べますから」
あせった様子で航志朗が言った。
「そういう意味で言ったんじゃない。わかった。一緒につくろう」
ひそかに安寿は思った。
(だって、航志朗さんと一緒に過ごせる最後のクリスマスだから……)
なんだかんだで食材と雑貨をたくさん買い込んだ。安寿と航志朗はそれぞれ大きな紙袋を両手に提げて車に戻った。トランクに紙袋を収めて安寿を助手席に座らせると、何も言わずに航志朗はまたスーパーマーケットに走って行った。何か買い忘れたのかもしれないと安寿は思った。駐車場はたいへん混雑していて、ひっきりなしに車が行き交っている。
安寿がスマートフォンを操作して今夜の夕食のレシピを検索していると、航志朗が戻って来た。安寿は目をまん丸くさせた。航志朗は手に真っ赤なバラの大きな花束を抱えている。車に乗り込むと、航志朗は驚いた顔をしている安寿の膝の上にふわっと花束をのせて残念そうに言った。
「この倍の百本買いたかったけれど、今日はクリスマスイブだから、マックス五十本なんだそうだ」
「……五十本も! こんなにたくさんのお花をありがとうございます」
安寿はバラの花束に顔を近づけてその香りをかいだ。上質な大人の甘い香りがした。表情をゆるめながら航志朗は安寿を見つめてエンジンをかけたが、突然、身を乗り出して安寿の唇にキスした。目の前を通った家族連れに見られたのがわかって、すぐに安寿は下を向いた。
心から愉しそうに航志朗が言った。
「安寿、君が手に持ったバラの花も君の顔も真っ赤だな」
仏頂面をした安寿は航志朗を責めるように言った。
「もう、昼間からこんなところで!」
久しぶりに見た安寿の仏頂面に航志朗は胸を高鳴らせるが、即座に冷静さを装って反論した。
「まったく問題ないだろ。このエリアは各国の大使館が多いから、外国籍の人びとがたくさん住んでいる。さっきのスーパーだって多国籍の食材が並んでいただろ? ここでは他人の目の前でキスしたって、誰もなんとも思わない」
「でも、人前では恥ずかしいです!」
「じゃあ、人前じゃなかったら、いつでもどんなところでもいいんだな?」
「それは……」
安寿は言葉に詰まった。
車を運転しながら航志朗はつくづく思った。
(なんだか昔に戻ったみたいだな。婚姻届を提出したばかりの新婚の時に。いや、そもそも俺たちは本当に結婚していると言えるのか。安寿が俺を愛しているのか、彼女の本当の気持ちがわかっていないじゃないか……)
余計な思考に思い至ってしまった感じがして、航志朗は深くため息をついた。