今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 マンションに着替えを取りに行くと航志朗が言うので、航志朗のマンションの駐車場まで来たが、安寿は車の中で待つことにした。車を降りる時、航志朗は「冷えてきたな」と言って、自分が着ていたジャケットを脱いで安寿の膝に掛けて行った。それはとても温かかった。安寿は(今日は本当に長い一日だ。本当に……)と思いつつ、目を閉じて眠ってしまった。

 しばらくして、ブリーフケースを持って車に戻って来た航志朗が車のドアを開けると、安寿が少し唇を開けて眠っていることに気がついた。そのあまりの可愛らしさに航志朗は思わず顔を寄せて安寿にキスしようとしたが、すぐに思い直してそれをとどめた。

 (起こしたらかわいそうだ。こんなにぐっすり眠っているのに)

 そして、しばらく安寿の寝顔を見つめてから、微笑を浮かべた航志朗は安寿の団地に向かって車を発進させた。

 安寿の家に着いたのは、午後九時半すぎだった。道の途中で起きた安寿と航志朗は、真っ暗でしんとした静かな家の中に入った。

 「岸さん、お腹が空きましたよね。叔母がシチューをつくっておいたと言っていたので、よかったら食べませんか?」

 「それはありがたいな。でも君は座っていた方がいい。俺が用意するから」

 「いえ、大丈夫です。岸さん、座っていてください」と安寿は言って、キッチンに立ってシチューの入った鍋をガスをつけて温め始めた。

 航志朗はソファに座った。なんとはなしに部屋を見回すと、かたわらの背の低いブックシェルフの天板にフォトフレームが飾ってあることに気づいた。それは写真館で撮影された五人家族の記念写真だった。ひと目で三歳の安寿の七五三祝いの時に撮影されたものだとわかる。

 幼い安寿は可憐な花々の刺繍がほどこされた赤い着物に白い被布を羽織っている。写真のなかの三歳の安寿はむすっと仏頂面をしていて、それがかえって可愛らしい。それを見た航志朗は思わず声を出して笑ってしまった。

 安寿の祖父母と母と学生のような若い叔母がにこやかに笑っている。安寿の母は薄桃色の訪問着を着ていた。長い黒髪を着物にたらしている。初めて見るはずの安寿の母の顔だが、航志朗はどこかで会ったことがあるような気がした。安寿に面影がよく似ているからなのかもしれない。

 (安寿が許してくれるのなら、墓参りに行って、彼女の母や祖父母にもごあいさつするか)

 航志朗はキッチンにいる安寿に向かって尋ねた。

 「君は子どもの頃からずっとこの家に住んでいるの?」

 「いいえ、違います。叔母と八年前に引っ越してきました。それまで祖父母の家に住んでいたのですが、祖父母が亡くなって土地と家を売却したんです」

 「そうだったのか。あの風景画は誰が描いたんだ? 君の絵じゃないよね」

 「はい。祖父が描きました。祖父は郵便局に勤めていたんですが、日曜画家でした」

 「いい絵だね。美しい日曜日って感じだ」

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