今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第6節
クリスマスの朝、航志朗が起きると隣に安寿の姿がなかった。深いため息をついてから、航志朗は階段を下りてリビングルームに向かった。窓辺に立てられたイーゼルの前で安寿がうなだれてしゃがみこんでいるのが見えた。顔をしかめた航志朗はゆっくりと安寿に近づいて、後ろからそっと腕を回して安寿を包み込んだ。
「どうした、安寿」
安寿は何も答えなかった。安寿の右手には白い油絵具が付着していた。その頬にもこすったような白い跡が何か所もあった。おそらく涙を手でぬぐった時にできたのだろう。
航志朗は安寿をソファに連れて行き、そっと腕の中に抱きしめた。つらそうに顔をゆがめて安寿が航志朗に訴えるように言った。
「私、思うように描けないの。……どうしても」
航志朗は安寿の黒髪をなでながら言った。
「君は疲れているんだ。無理して描くことはないだろ。休もう、安寿」
うつむいた安寿は両目をこすりながら言った。
「休めない。私には絵を描くこと以外に何もないんだもの。絵を失くしたら、私はこの世界にいる意味がない」
静かに航志朗が言った。
「この世に意味のないことなんてない。俺は君がいるからここにいる」
安寿の肩を抱いて航志朗は洗面台に連れて行った。航志朗は温水で湿らせたタオルで安寿の頬をぬぐい、安寿の手についた白い油絵具も石鹸でよく洗って落とした。鏡に映った安寿に向かって、航志朗が明るい声で言った。
「そうだ、安寿。クリスマスデートをしよう。車でどこかに出かけないか?」
鏡の中のうつむいた安寿は首を振って、航志朗は深いため息をついた。
昨晩の残りのブラウンシチューを温め直して朝食にした。今度は安寿が食欲がなくて、航志朗がむいたリンゴを少し口にしただけだった。
その日から一日じゅう大きなキャンバスに向かって、安寿は白い羽根を描き続けた。あまりにもその姿が苦悶に満ちていて、ずっと見守っている航志朗も胸が苦しくて仕方がなかった。とにかく気分転換をさせようと近所のレストランや植物園に連れ出したが、ずっと安寿は無表情のままだった。一緒にキッチンに立って料理はするものの、食事はほとんど口にしないし、夜もよく寝つけないのが伝わってくる。万策尽きて航志朗は頭を抱えた。
(いったい俺はどうしたらいいんだ。年明けの二日にはパリに戻らなくてはならないのに)
実は、現在、航志朗が取り組んでいるパリの国立美術館でのアートプロジェクトも暗礁に乗り上げていた。外部アドバイザーとしての契約は来年の二月末までだ。三月には参画しているプロジェクトが実施される予定になっている。
そのアートプロジェクトは、未来を担う子どもたちがアートを通じて国際理解を深めるために、美術館内に国際的な文化交流の空間を創造することを目的としている。
このコンセプトに共鳴したフランス国内外のアーティストたちが無償で自らの作品を提供し、世界中の十八歳以下の子どもたちとその保護者に無料で公開される。サステナブルに経営を維持するためには、大々的に広報活動をメディアに投入しなければならないが、国立美術館は公共の施設であるためその広告宣伝は営利目的であってはならず、さらにそのコストには大幅な経費削減が求められる。
そこで、全世界的なコミュニケーションツールのSNSを使って来場者に美術館のコンテンツを拡散してもらおうと、航志朗を含めた若手メンバーたちが室長を通じて事務局長に提案した。そのためには、館内に印象的なスポットを多数設置しなければなけれなならない。もちろん館内での作品の撮影はフリーだ。
ただ世界各国から続々と集まってきている作品には、残念ながらそのインパクトを持つ可能性があるものが少ないと結論が出た。また、もし想定外で一時的に爆発的な注目を集めたとしても、すぐにタイムラインに流れて行ってしまうだろう。現代的でありながら普遍的な力を持つ作品が希求されるが、今後納品予定の作品リストにもそれが見当たらない。
航志朗は腕を組んでリビングルームの窓から重く暗い雲が垂れ込める空を見上げた。
(あと二か月で、その最適解を見つけることができるのか)
このクリスマス休暇明けにはかなり切迫した会議が待っている。
あっという間に大みそかを迎えた。正午すぎに伊藤が大きな風呂敷包みを抱えてマンションにやって来た。玄関で航志朗が礼を言って風呂敷包みを受け取った。安寿は出てこない。怪訝そうに伊藤が航志朗に尋ねた。
「安寿さまは?」
「ああ、今、彼女は絵を描いています。呼んできましょうか?」
「いえ、それにはおよびません。それでは、よいお年をお迎えくださいませ、航志朗坊っちゃん」
ずっしりと重い風呂敷包みを航志朗はダイニングテーブルに運んだ。絵を描くことに集中した安寿の後ろ姿が目に入る。それは孤独で壮絶な姿だった。今、安寿の描いている絵は大学の課題ではないし、ましてや誰かに依頼された絵でもない。
その時、航志朗は思い至った。今、安寿が使っている油絵の道具は、安寿の父のものだ。強いて言えば、絵を描きながら安寿はその亡き父の面影を追っているのかもしれない。安寿が「描けない」と言ったのは、自分の父の姿をどうしても思い描けないということなのだろう。
(いつも俺は彼女を見守ることしかできないんだよな……)
航志朗は安寿の後ろから窓の外を見た。今年最後の陽が落ちて、辺りが薄暗くなっていく。その時、航志朗はわけのわからない胸騒ぎを覚えた。
「どうした、安寿」
安寿は何も答えなかった。安寿の右手には白い油絵具が付着していた。その頬にもこすったような白い跡が何か所もあった。おそらく涙を手でぬぐった時にできたのだろう。
航志朗は安寿をソファに連れて行き、そっと腕の中に抱きしめた。つらそうに顔をゆがめて安寿が航志朗に訴えるように言った。
「私、思うように描けないの。……どうしても」
航志朗は安寿の黒髪をなでながら言った。
「君は疲れているんだ。無理して描くことはないだろ。休もう、安寿」
うつむいた安寿は両目をこすりながら言った。
「休めない。私には絵を描くこと以外に何もないんだもの。絵を失くしたら、私はこの世界にいる意味がない」
静かに航志朗が言った。
「この世に意味のないことなんてない。俺は君がいるからここにいる」
安寿の肩を抱いて航志朗は洗面台に連れて行った。航志朗は温水で湿らせたタオルで安寿の頬をぬぐい、安寿の手についた白い油絵具も石鹸でよく洗って落とした。鏡に映った安寿に向かって、航志朗が明るい声で言った。
「そうだ、安寿。クリスマスデートをしよう。車でどこかに出かけないか?」
鏡の中のうつむいた安寿は首を振って、航志朗は深いため息をついた。
昨晩の残りのブラウンシチューを温め直して朝食にした。今度は安寿が食欲がなくて、航志朗がむいたリンゴを少し口にしただけだった。
その日から一日じゅう大きなキャンバスに向かって、安寿は白い羽根を描き続けた。あまりにもその姿が苦悶に満ちていて、ずっと見守っている航志朗も胸が苦しくて仕方がなかった。とにかく気分転換をさせようと近所のレストランや植物園に連れ出したが、ずっと安寿は無表情のままだった。一緒にキッチンに立って料理はするものの、食事はほとんど口にしないし、夜もよく寝つけないのが伝わってくる。万策尽きて航志朗は頭を抱えた。
(いったい俺はどうしたらいいんだ。年明けの二日にはパリに戻らなくてはならないのに)
実は、現在、航志朗が取り組んでいるパリの国立美術館でのアートプロジェクトも暗礁に乗り上げていた。外部アドバイザーとしての契約は来年の二月末までだ。三月には参画しているプロジェクトが実施される予定になっている。
そのアートプロジェクトは、未来を担う子どもたちがアートを通じて国際理解を深めるために、美術館内に国際的な文化交流の空間を創造することを目的としている。
このコンセプトに共鳴したフランス国内外のアーティストたちが無償で自らの作品を提供し、世界中の十八歳以下の子どもたちとその保護者に無料で公開される。サステナブルに経営を維持するためには、大々的に広報活動をメディアに投入しなければならないが、国立美術館は公共の施設であるためその広告宣伝は営利目的であってはならず、さらにそのコストには大幅な経費削減が求められる。
そこで、全世界的なコミュニケーションツールのSNSを使って来場者に美術館のコンテンツを拡散してもらおうと、航志朗を含めた若手メンバーたちが室長を通じて事務局長に提案した。そのためには、館内に印象的なスポットを多数設置しなければなけれなならない。もちろん館内での作品の撮影はフリーだ。
ただ世界各国から続々と集まってきている作品には、残念ながらそのインパクトを持つ可能性があるものが少ないと結論が出た。また、もし想定外で一時的に爆発的な注目を集めたとしても、すぐにタイムラインに流れて行ってしまうだろう。現代的でありながら普遍的な力を持つ作品が希求されるが、今後納品予定の作品リストにもそれが見当たらない。
航志朗は腕を組んでリビングルームの窓から重く暗い雲が垂れ込める空を見上げた。
(あと二か月で、その最適解を見つけることができるのか)
このクリスマス休暇明けにはかなり切迫した会議が待っている。
あっという間に大みそかを迎えた。正午すぎに伊藤が大きな風呂敷包みを抱えてマンションにやって来た。玄関で航志朗が礼を言って風呂敷包みを受け取った。安寿は出てこない。怪訝そうに伊藤が航志朗に尋ねた。
「安寿さまは?」
「ああ、今、彼女は絵を描いています。呼んできましょうか?」
「いえ、それにはおよびません。それでは、よいお年をお迎えくださいませ、航志朗坊っちゃん」
ずっしりと重い風呂敷包みを航志朗はダイニングテーブルに運んだ。絵を描くことに集中した安寿の後ろ姿が目に入る。それは孤独で壮絶な姿だった。今、安寿の描いている絵は大学の課題ではないし、ましてや誰かに依頼された絵でもない。
その時、航志朗は思い至った。今、安寿が使っている油絵の道具は、安寿の父のものだ。強いて言えば、絵を描きながら安寿はその亡き父の面影を追っているのかもしれない。安寿が「描けない」と言ったのは、自分の父の姿をどうしても思い描けないということなのだろう。
(いつも俺は彼女を見守ることしかできないんだよな……)
航志朗は安寿の後ろから窓の外を見た。今年最後の陽が落ちて、辺りが薄暗くなっていく。その時、航志朗はわけのわからない胸騒ぎを覚えた。