今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 風呂敷包みの中には咲の手打ちらしい生そばまで入っていた。航志朗は鍋に湯を沸かして、生そばを茹ではじめた。

 「安寿、夕食にしようか。年越しそばができたよ」

 その言葉に集中が途切れた安寿がぼんやりと航志朗を見つめた。

 安寿と航志朗はダイニングテーブルに向かい合った。咲は車海老と野菜の天ぷらまで用意してくれた。安寿はそばを啜ってぽつんとつぶやいた。

 「……おいしい」

 穏やかに航志朗が微笑んだ。安寿は航志朗を見つめて気づいた。

 (絵を描くことに夢中になってしまって忘れていた。私、ぜんぜん彼の妻らしいことをしていない)

 突然、あわてたように安寿は航志朗に尋ねた。

 「航志朗さん、冬休みはいつまでなんですか?」

 「明日までだ。日本と違って、フランスは一月二日から仕事が始まるんだ」

 「明日まで……」

 胸がふさいで安寿は下を向いた。

 (私、何やってるの。航志朗さんと一緒に過ごせる最後の休暇だったのに)

 すぐに安寿は立ち上がって航志朗の後ろに立った。

 「……ん?」

 不思議そうな顔を浮かべて振り返った航志朗に安寿は思いきり抱きついた。すぐに航志朗は安寿を膝の上に乗せて、苦笑いしながら安寿の頬に手を触れて言った。

 「やっと俺のことを思い出したんだろ、安寿?」

 ぽっと頬を赤らめて安寿はうなずいた。

 そのままふたりはしばらく抱き合った。航志朗がふと思い出して言った。

 「そうだ。この前買っておいた入浴剤を風呂に入れようか。なんとか温泉の素とか書いてあった」

 安寿は航志朗にしがみつきながらうなずいた。

 恐る恐る航志朗は安寿に尋ねた。

 「安寿、今年最後の夜だし、一緒に風呂に入らないか? もしよかったらでいいけど」

 しばらく安寿は沈黙した。航志朗は胸の鼓動を早めた。

 やがて、航志朗の耳に「はい」という安寿のか細い返事が聞こえた。

 「本当か、安寿!」

 思わず大声をあげた航志朗は安寿を抱き上げてソファに運ぶと、一目散にバスルームに走って行った。

 一人でリビングルームに残された安寿はつぶやいた。

 「どうしよう。思わず『はい』って返事しちゃった」

 なかなか湯がたまらないバスタブを前に腕を組んでいら立ちながら、航志朗は自分に言い聞かせた。

 (一緒に風呂に入るだけだ。それ以上は彼女に求めるなよ)

 やっとバスタブに熱い湯が満杯になった。航志朗は入浴剤のパッケージを開けて中の粉末を湯に溶かした。不透明な濃い乳白色だ。

 (これなら大丈夫だな。……って、何が大丈夫なんだよ!)

 頭のなかが大いに混乱した状態で、すぐにリビングルームに安寿を呼びに行った。

 安寿は着替えのパジャマを膝に置いてソファにおとなしく座っていた。その姿に航志朗は胸をどきっとさせた。

 (やっぱり、いいんだな……)

 「安寿、風呂の準備ができたよ。一緒に行こうか」

 航志朗は冷静さを装ったつもりだったが、語尾が震えた。

 すんなりと安寿は立ち上がった。少し迷ったが、航志朗は安寿の手を握った。洗面脱衣室に入ると安寿は恥ずかしそうに言った。

 「あの、航志朗さん。先に入ってください。それから目を閉じていてくださいね」

 「わかった。そうするよ」

 航志朗は服を脱いだ。安寿は後ろを向いている。航志朗がバスタブに浸かると、すりガラスの向こうで安寿が服を脱いでいる姿が目に入った。そろそろと安寿がバスルームに入って来た。あわてて航志朗は目を閉じた。湯を身体にかけてから、航志朗の前で安寿がバスタブに浸かって座った気配を感じる。湯が柔らかく揺れて「ふう」ともらした安寿のため息が聞こえた。

 「乳白色のお湯なんですね。なんだか楽しい」

 その安寿の可愛らしい声に思わず航志朗は目を開けた。当然、安寿の肩から上は見えるが、その下は微かに透けて見えるだけだ。まるであのモデルのドレスを着た安寿の姿のようだ。航志朗と目が合った安寿は身体を丸めてうつむいて恥ずかしそうに頼んだ。
 
 「あの、航志朗さん。私に背を向けてくれませんか」

 「……わかった」

 安寿の言う通りに航志朗は背中を向けた。航志朗の大きな背中が安寿の目に入る。

 身体が芯から温まり、緊張した気持ちがゆるんでいくのを感じながら安寿は思った。

 (これなら大丈夫。彼の身体に触れさえしなければ……)

 だんだん気持ちがよくなって、安寿はリラックスしてきた。このまま眠ってしまいそうだ。

 その時、遠くの方から低く響くような音が聞こえてきた。何回も繰り返し聞こえる。

 航志朗が曇った窓を見て言った。

 「何の音だ?」

 「除夜の鐘の音ですよ、きっと」

 「ああ、そうか。久しぶりに聞く音だな」

 安寿と航志朗は鐘の音に耳をすませた。すると安寿の耳に聞き慣れたメロディーが聞こえてきた。航志朗が英語であのアイルランドのフォークソングを口ずさんでいる。安寿は目を細めて航志朗の背中を見つめた。

 安寿は航志朗の背中に寄りかかった。一瞬、航志朗の肩が弾んだ。身体を動かさずに航志朗は横目で後ろを見た。安寿の長い黒髪が湯の中を漂っている。背中に安寿のなめらかな肌と、ゆっくりと安寿が呼吸をしている揺らぎを感じる。目を閉じた航志朗はゆったりと心が安らいでいった。

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