今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
やっと安寿はおせち料理に箸をつけた。ほどよい甘さが身体にしみる。
「とってもおいしい!」
そう言ってから安寿は航志朗を見つめた。明日にはまた遠く離れることになる。そして、やがて訪れる春には離婚届を提出する日がやって来る。今度、航志朗と会う日はその日になるのかもしれない。安寿は箸をそっと置いて下を向いた。
「ん? 安寿、どうした。もうお腹いっぱいになったのか」
つらそうに瞳を陰らせて安寿は尋ねた。
「航志朗さん、明日は何時の飛行機に乗るんですか?」
ふっと航志朗は微笑んで言った。
「安寿、まだ言ってなかったな。休暇は、あと一週間延長になったよ」
「本当ですか!」
「ああ、当然だ。油絵を仕上げて、乾燥させる時間が必要だろ?」
「そうですね。では、私、今日中に仕上げます!」
「それにしても、君の作品をパリに持って行ってしまってもいいのか?」
「もちろん持って行ってください。だって航志朗さんのお仕事のお役に立てるんでしょ?」
「まあ、そうだけど……。いいのか、本当に?」
嬉しそうに安寿は大きくうなずいた。
(よかった。私、少しでも航志朗さんのお役に立てるんだ)
突然、安寿の目の色が変わった。それから安寿は猛然と仕上げに取りかかった。イーゼルに置かれた白い羽根の絵は、白い翼の絵になった。逆さまになったままだということをまったく気にも留めずに、安寿は描き出した。航志朗は安寿の後ろ姿を黙って見守った。
安寿が油絵具を補充しようと父の油絵具が入った木箱を開けると、その木枠に薄桃色の小さな点がついていることに気づいた。
(……薄桃色? お父さん、こんな色も使ったことがあるんだ。熊本でルリさんに見せていただいたお父さんの絵には、この色は使われていなかった。薄桃色でお父さんはどんな絵を描いていたんだろう、見てみたかったな)
しばらく物思いにふけってから、安寿は気を取り直してまた絵を描きはじめた。
その日の夕方には、東京の実家に帰省せずに京都に大翔と一緒にいる莉子から電話がかかってきた。久しぶりに楽しそうに莉子とおしゃべりをする安寿を見て、航志朗はチョコレートをつまみながら微笑んだ。
また安寿は画筆を握って白い翼を描き続けた。絵を描くことへの情熱が安寿の身体から熱く噴き出している。こんなにも目の前のことに集中する安寿を見るのは初めてだ。改めて驚嘆を感じるとともに、安寿がひとりでどこか遠くに行ってしまいそうな気がして、航志朗はいくばくかの不安を覚えた。
日付が変わってから、安寿はほっとしたように言った。
「できました、航志朗さん」
力尽きた安寿はカーペットの上に倒れ込んだ。ダイニングテーブルの上にノートパソコンを開いて仕事をしていた航志朗があわてて安寿のそばに行って、安寿を抱き上げた。
「安寿、大丈夫か!」
「大丈夫。航志朗さん、私、とても眠くなっちゃった……」
航志朗の腕の中で安寿は目を閉じて眠りに落ちた。その日の昼食も夕食も航志朗が時間を見はからって安寿に咲のおせち料理を食べてさせていたが、まだ風呂に入っていない。航志朗は安寿を抱き上げてベッドに連れて行った。ぐっすりと眠る安寿を見つめて、航志朗はつぶやいた。
「風呂は明日起きたら入ればいいよな。……また一緒に」
キティに編んでもらったネイビーのセーターを脱いで、航志朗は安寿の隣に横になった。白い油絵具がついた安寿の手をそっと握る。とても温かい。小さいが力強い手だ。改めて航志朗は胸の内で誓った。
(俺は絶対にこの手を離さない。そして、全身全霊を捧げて、安寿を守る)
「とってもおいしい!」
そう言ってから安寿は航志朗を見つめた。明日にはまた遠く離れることになる。そして、やがて訪れる春には離婚届を提出する日がやって来る。今度、航志朗と会う日はその日になるのかもしれない。安寿は箸をそっと置いて下を向いた。
「ん? 安寿、どうした。もうお腹いっぱいになったのか」
つらそうに瞳を陰らせて安寿は尋ねた。
「航志朗さん、明日は何時の飛行機に乗るんですか?」
ふっと航志朗は微笑んで言った。
「安寿、まだ言ってなかったな。休暇は、あと一週間延長になったよ」
「本当ですか!」
「ああ、当然だ。油絵を仕上げて、乾燥させる時間が必要だろ?」
「そうですね。では、私、今日中に仕上げます!」
「それにしても、君の作品をパリに持って行ってしまってもいいのか?」
「もちろん持って行ってください。だって航志朗さんのお仕事のお役に立てるんでしょ?」
「まあ、そうだけど……。いいのか、本当に?」
嬉しそうに安寿は大きくうなずいた。
(よかった。私、少しでも航志朗さんのお役に立てるんだ)
突然、安寿の目の色が変わった。それから安寿は猛然と仕上げに取りかかった。イーゼルに置かれた白い羽根の絵は、白い翼の絵になった。逆さまになったままだということをまったく気にも留めずに、安寿は描き出した。航志朗は安寿の後ろ姿を黙って見守った。
安寿が油絵具を補充しようと父の油絵具が入った木箱を開けると、その木枠に薄桃色の小さな点がついていることに気づいた。
(……薄桃色? お父さん、こんな色も使ったことがあるんだ。熊本でルリさんに見せていただいたお父さんの絵には、この色は使われていなかった。薄桃色でお父さんはどんな絵を描いていたんだろう、見てみたかったな)
しばらく物思いにふけってから、安寿は気を取り直してまた絵を描きはじめた。
その日の夕方には、東京の実家に帰省せずに京都に大翔と一緒にいる莉子から電話がかかってきた。久しぶりに楽しそうに莉子とおしゃべりをする安寿を見て、航志朗はチョコレートをつまみながら微笑んだ。
また安寿は画筆を握って白い翼を描き続けた。絵を描くことへの情熱が安寿の身体から熱く噴き出している。こんなにも目の前のことに集中する安寿を見るのは初めてだ。改めて驚嘆を感じるとともに、安寿がひとりでどこか遠くに行ってしまいそうな気がして、航志朗はいくばくかの不安を覚えた。
日付が変わってから、安寿はほっとしたように言った。
「できました、航志朗さん」
力尽きた安寿はカーペットの上に倒れ込んだ。ダイニングテーブルの上にノートパソコンを開いて仕事をしていた航志朗があわてて安寿のそばに行って、安寿を抱き上げた。
「安寿、大丈夫か!」
「大丈夫。航志朗さん、私、とても眠くなっちゃった……」
航志朗の腕の中で安寿は目を閉じて眠りに落ちた。その日の昼食も夕食も航志朗が時間を見はからって安寿に咲のおせち料理を食べてさせていたが、まだ風呂に入っていない。航志朗は安寿を抱き上げてベッドに連れて行った。ぐっすりと眠る安寿を見つめて、航志朗はつぶやいた。
「風呂は明日起きたら入ればいいよな。……また一緒に」
キティに編んでもらったネイビーのセーターを脱いで、航志朗は安寿の隣に横になった。白い油絵具がついた安寿の手をそっと握る。とても温かい。小さいが力強い手だ。改めて航志朗は胸の内で誓った。
(俺は絶対にこの手を離さない。そして、全身全霊を捧げて、安寿を守る)