今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第7節
それからの一週間は、安寿にとって覚めてほしくない最後の夢のような日々だった。
一日中、ずっと航志朗と触れ合っていた。数えきれないくらい航志朗にキスされて、その腕の中に抱きしめられた。でも、航志朗はそれ以上は求めてこなかった。心から安心して、安寿は航志朗の腕の中で気持ちよく目を閉じた。
いつかこの甘い日々の終わりが来ることはじゅうぶんわかっていた。ただこの今だけを、安寿は自分の存在のすべてで感じていた。
日一日と安寿の油絵は乾燥していった。安寿と航志朗は並んで絵の前に座って白い翼を眺めた。手を伸ばして安寿は一枚の白い羽にそっと触れた。もう指先に白い油絵具はつかない。小さな羽が集まってできた大きな白い翼はどこかから吹く風に乗って、舞うように羽ばたいているような気がした。安寿はきつく胸がしめつけられて苦しくなってきた。その風は、今、目の前にいる航志朗をやがて空の彼方へ連れて去ってしまう。ふいに安寿は航志朗の腕をつかんで思い詰めたように尋ねた。
「航志朗さん、今度はいつ帰って来られますか?」
安寿を見て航志朗は目を見張った。初めて安寿がそう尋ねてきたからだ。わきあがる喜びで航志朗の心は満たされた。航志朗は安寿が自分を心から愛してくれているという甘美な確信を持った。
「君が俺に帰って来てほしいと言ったら、いつでもどこにいても俺は君のところにすぐ帰って来る」
「そうですか……」
目を伏せて安寿は表情に陰ををつくってうつむいた。
あわてて航志朗が安寿の手を握って言った。
「ごめんごめん、安寿。具体的に言うよ。今、参画しているプロジェクトは二月末で契約が終了する。だから、三月になったら必ず帰って来るよ」
「三月……」
「もちろん、毎週末、帰国してもいい」
「それは航志朗さんに負担をかけてしまいます。フランスはとても遠いのに」
航志朗は下を向いたままの安寿をきつく抱きしめて言った。
「安寿、今まで君に寂しい想いをさせてしまって、本当にすまなかった。やっぱり、今、君に話しておくよ。パリでの仕事が終わったら、俺は仕事の拠点をシンガポールから東京に移そうと考えている。……君と一緒に暮らすために」
突然、安寿の両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。目を細めて航志朗は安寿を見つめると、優しく安寿の頭をなでながら言った。
「だから、あともう少しだけ俺を待っていてほしい」
航志朗に回した腕の力を安寿は強めた。とめどなくあふれ出てくる涙に邪魔をされて、安寿は本当の気持ちを言えなかった。
(航志朗さん、それはだめ。私たちは春が来たら離婚することになるんだから、一緒に暮らすなんてできない。それに、あなたは地上に縛られるひとじゃない。広い大空へと羽ばたいて行くひとなのに。やっぱり、私、あなたの足を引っぱっている)
とうとう航志朗が再びパリに旅立つ日がやって来た。安寿の大学の冬期休暇をはさんだ後期授業は、明日から始まる。
ふたりはマンションの前で別れた。航志朗はタクシーに乗って空港へ。マウンテンリュックサックを背負って、父の油絵の道具が入った箱を抱えた安寿は岸家へ。
安寿は一度振り返って、航志朗を乗せたタクシーが走り去って行った方向を見た。
航志朗はキャンバスバッグに収めた白い翼の絵を大切そうに抱えて手を振った。それが、安寿が見た航志朗の最後の姿だった。
そっと安寿は小声でつぶやいた。
「さようなら、私の白い翼。……そして、私の愛する航志朗さん」
その言葉は冬の鈍色の空に吸い込まれて、誰にも知られずに静かに消えていった。
一日中、ずっと航志朗と触れ合っていた。数えきれないくらい航志朗にキスされて、その腕の中に抱きしめられた。でも、航志朗はそれ以上は求めてこなかった。心から安心して、安寿は航志朗の腕の中で気持ちよく目を閉じた。
いつかこの甘い日々の終わりが来ることはじゅうぶんわかっていた。ただこの今だけを、安寿は自分の存在のすべてで感じていた。
日一日と安寿の油絵は乾燥していった。安寿と航志朗は並んで絵の前に座って白い翼を眺めた。手を伸ばして安寿は一枚の白い羽にそっと触れた。もう指先に白い油絵具はつかない。小さな羽が集まってできた大きな白い翼はどこかから吹く風に乗って、舞うように羽ばたいているような気がした。安寿はきつく胸がしめつけられて苦しくなってきた。その風は、今、目の前にいる航志朗をやがて空の彼方へ連れて去ってしまう。ふいに安寿は航志朗の腕をつかんで思い詰めたように尋ねた。
「航志朗さん、今度はいつ帰って来られますか?」
安寿を見て航志朗は目を見張った。初めて安寿がそう尋ねてきたからだ。わきあがる喜びで航志朗の心は満たされた。航志朗は安寿が自分を心から愛してくれているという甘美な確信を持った。
「君が俺に帰って来てほしいと言ったら、いつでもどこにいても俺は君のところにすぐ帰って来る」
「そうですか……」
目を伏せて安寿は表情に陰ををつくってうつむいた。
あわてて航志朗が安寿の手を握って言った。
「ごめんごめん、安寿。具体的に言うよ。今、参画しているプロジェクトは二月末で契約が終了する。だから、三月になったら必ず帰って来るよ」
「三月……」
「もちろん、毎週末、帰国してもいい」
「それは航志朗さんに負担をかけてしまいます。フランスはとても遠いのに」
航志朗は下を向いたままの安寿をきつく抱きしめて言った。
「安寿、今まで君に寂しい想いをさせてしまって、本当にすまなかった。やっぱり、今、君に話しておくよ。パリでの仕事が終わったら、俺は仕事の拠点をシンガポールから東京に移そうと考えている。……君と一緒に暮らすために」
突然、安寿の両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。目を細めて航志朗は安寿を見つめると、優しく安寿の頭をなでながら言った。
「だから、あともう少しだけ俺を待っていてほしい」
航志朗に回した腕の力を安寿は強めた。とめどなくあふれ出てくる涙に邪魔をされて、安寿は本当の気持ちを言えなかった。
(航志朗さん、それはだめ。私たちは春が来たら離婚することになるんだから、一緒に暮らすなんてできない。それに、あなたは地上に縛られるひとじゃない。広い大空へと羽ばたいて行くひとなのに。やっぱり、私、あなたの足を引っぱっている)
とうとう航志朗が再びパリに旅立つ日がやって来た。安寿の大学の冬期休暇をはさんだ後期授業は、明日から始まる。
ふたりはマンションの前で別れた。航志朗はタクシーに乗って空港へ。マウンテンリュックサックを背負って、父の油絵の道具が入った箱を抱えた安寿は岸家へ。
安寿は一度振り返って、航志朗を乗せたタクシーが走り去って行った方向を見た。
航志朗はキャンバスバッグに収めた白い翼の絵を大切そうに抱えて手を振った。それが、安寿が見た航志朗の最後の姿だった。
そっと安寿は小声でつぶやいた。
「さようなら、私の白い翼。……そして、私の愛する航志朗さん」
その言葉は冬の鈍色の空に吸い込まれて、誰にも知られずに静かに消えていった。