今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿と航志朗は遅い夕食をとった。恵が用意しておいたホワイトシチューとブロッコリーのサラダとご飯だ。炊飯器の保温時間は四時間になっていた。まさか恵はこれを航志朗が食べることになるとは思わなかっただろう。それを思うと安寿は少し可笑しくなった。航志朗は「おいしい、おいしい」と言って何回もおかわりした。それから、航志朗が率先して食器の後片づけをした。その手慣れた様子に安寿は驚いた。しかも、自分が洗うよりもずっときれいな仕上がりなのだ。ひそかに安寿は感心した。

 (あのひと、坊っちゃんなのに家事をするんだ……)

 それから、安寿は浴室に行って入浴の準備をした。バスタブにはいつもより多めに湯を張った。

 「岸さん、あの、よかったら、お風呂に入りませんか」と安寿は航志朗に言った。

 「俺はシャワーだけ使わせてもらえばいいよ」

 「だめですよ。重い私を背負ったりしてくださったんですから。どうぞ、ゆっくりお湯につかってください」

 「君は?」

 「私はお医者さんに今日はお風呂に入っちゃだめだと言われたので、やめておきます」

 「そうだったな……」

 航志朗は着替えを持って浴室に行った。安寿はその後ろ姿を見送って思った。

 (そういえば、恵ちゃん、朝から家じゅう大掃除していたんだよね。お風呂だってあんなにピカピカに磨いていたし。……ああ、よかった!)

 航志朗は風呂に入った。航志朗がバスタブに浸かるのは久しぶりだ。とても気持ちがいい。航志朗は安寿の家の浴室で裸でくつろいでいる自分が信じられなかった。昨晩は飛行機に搭乗するぎりぎりの時間までシンガポールで忙しく働いていたのに、なんだか遠い昔のようだ。航志朗はデュボアの言っていた言葉を思い出した。

 (「人生は不可思議だな」、……か)

 そして、航志朗は気がついた。左手首をまじまじと見つめる。昨年ニースに行ってからずっとつけていたブレスレットがない。チェーンが切れて、どこかに落としたのかもしれない。

 (そうだ。今夜、俺の片思いがかなったのかもしれないな)

 航志朗は左手を右手でなでながら、心の底から嬉しさがこみあげてきた。

 外から安寿の声が聞こえた。

 「岸さん、バスタオルをここに置いておきますね」

 「ああ。ありがとう、安寿」

 (ん? なんだか新婚夫婦みたいじゃないか。って、実際そうなんだけど)

 航志朗は幸せそうに微笑んだ。

 (それにしても、いつ、彼女は俺のことを名前で呼んでくれるんだろうな……)

 安寿は航志朗が入浴している間に、キッチンのシンクで顔を洗い丁寧に歯みがきをして、自分の部屋に行って着替えた。少し迷ったが、いつもの小花柄の入ったピンク色のパジャマを着てその上に白いロングカーディガンを羽織った。

 リビングルームに戻って来ると、いつものようにソファの脇のスタンドライトをつけてから天井のシーリングライトを消して、部屋の照明を落とした。そして、安寿は色鉛筆の箱を出して来て、ローテーブルの上にのせた小さな紙に絵を描き始めた。

 「お風呂、気持ちよかったよ。ありがとう」と言って、航志朗は濡れた髪をタオルで拭きながら間接照明に包まれたリビングルームに入って来た。安寿はあわてて小さな紙をソファの下に隠した。航志朗はホワイトのパイピングがほどこされたライトグレーの品のよいパジャマを着ていた。安寿は風呂上がりの航志朗に思わずどきどきしてしまった。あわてて急須に入ったほうじ茶をマグカップに注いで、ソファに座った航志朗の前に置いた。時刻は午後十一時をとっくに過ぎていた。

 「安寿、足は痛くないのか?」

 航志朗が安寿にそっと尋ねた。

 「大丈夫です」

 安寿は本当のことを言わなかった。帰宅してから気がゆるんだのか、ずっと鈍痛が続いている。
 
 「本当にすまない。痛い思いをさせてしまって」

 「気にしないでください。本当に岸さんのせいではありません。私、運動神経が悪いんです。岸さんこそ、今日は本当にいろいろありがとうございました」

 少しぎこちなく礼を言ってから、安寿は思い返した。

 (いろいろって、私、何言ってるの。このひと、結婚してくれたのよ。私なんかと)

 航志朗はうつむいて、申しわけなさそうな顔で安寿の包帯が巻かれた左足を見つめた。その哀しみの宿った琥珀色の瞳を見て安寿は思った。

 (このひとは私にけがをさせてしまった責任を感じて、ここまでしてくれたんだ。恵ちゃんは私から自由になったけれど、今度はこのひとの自由を奪ってしまった。私、自立しなくちゃ、早く……)

 すると、航志朗が両手をゆっくりこすり合わせてから、安寿の左足首と膝頭をそれぞれの手のひらでそっと包んだ。その行為に安寿が戸惑っていると、航志朗がつぶやくように言った。

 「子どもの頃、俺がけがをした時に、よく咲さんがこういうふうに手を当ててくれた。早く治りますようにって」

 航志朗の手はひんやりと冷たいが、今の安寿にとってはそれが心地よかった。安寿はうとうとと眠気を感じはじめた。そして、白い霧がかかるように頭のなかがぼうっとしてきた。
 
 閉じていく思考のかたすみで安寿は思った。

 (今日は、長い、長い一日だった。……本当に)

 薄暗いなか、安寿と航志朗の顔が近づいた。ぼんやりと安寿は航志朗の目を見た。航志朗の琥珀色の瞳には自分が映っている。

 その時、安寿は薄れていく意識のなかで、初めて感じる身体の奥底を突き動かすような衝動を他人ごとのように眺めた。安寿の身体はひとりでに動き、安寿は航志朗に両手を伸ばしておもむろに抱きついた。そして、ひとしきり航志朗の左肩に顔をうずめてから、涙を流しはじめた。ありのままに安寿は声を出さずに静かに泣いていた。やがて、航志朗に抱きついたまま、安寿は目を閉じて動かなくなった。

 航志朗は突然の想定外の出来事に衝撃を受けて動けなくなってしまった。自分にいきなりしがみついてきた安寿を抱きしめることさえできなかった。航志朗は声を震わせてつぶやいた。

 「あ、安寿……」

 安寿はその身体のすべてを航志朗にあずけて、何ごともなかったかのようにこんこんと眠っている。やっとの思いで航志朗は安寿を抱きしめた。安寿を起こさないように、安寿を傷つけないように。

 しばらくその愛おしい温もりを全身で感じてから、航志朗は安寿をゆっくりと抱き上げて、安寿の部屋に運んで行った。そして、ベッドの上に安寿を横たえて、毛布でその身体を包んだ。本心では自分の妻になった安寿とベッドに入って一緒に眠りたかった。だが、今、それは安寿に許されていないと航志朗はじゅうぶんすぎるほどわかっていた。

 安寿の部屋の中は真っ暗で、かろうじて廊下から差し込むライトの光を頼りにしている。ふと航志朗は安寿の部屋のすみに何かの気配を感じた。

 (……なんだ?)

 目を凝らすと部屋の壁の一部に樹々が浮かび上がってきた。まるで部屋の壁が薄れてその先にあの森が広がっているようだった。それにあの森の空気も漂っている気がした。

 (あの森? ああ、そうか。彼女が描いていた森の絵があそこにあるのか)

 そして、航志朗は安寿の部屋のドアを静かに閉めてリビングルームに戻り、ラグの上に座ってソファに寄りかかった。その左肩は安寿の涙で温かく湿っていた。航志朗はそれに手を触れて、深いため息をついた。

 航志朗はふとソファの下に何かがあることに気づいた。手を伸ばして航志朗はそれを取った。小さな葉書大の厚紙だ。スタンドライトに当ててよく見ると、ろうそくが二十六本のったチョコレートケーキの絵と「岸さん、お誕生日おめでとうございます」とメッセージが丁寧な字で書かれてあった。ケーキの絵は描きかけだった。

 ローテーブルの上に視線を向けると、使い込まれたダークグリーンの色鉛筆の箱が置いてあった。航志朗は小さな紙を手に持ったままうつむいて、ふっと笑った。そして、ジャケットを羽織って腕組みをしながら航志朗は目を閉じた。

 ぐっすりと眠る安寿のかたすみには、安寿が描いたあの森が広がっていた。
 
 その森は静かに眠る安寿をずっと見守っていた。

 













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