今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
航志朗は二月末の契約満了を待たずにパリを後にすることになった。それは、館長の粋なはからいだった。
「あんなにも素晴らしい作品を無償で提供していただけるとは、大変心苦しい。君たちにささやかなお礼をしたい。コーシ、君の残りの契約期間を特別休暇にしよう。一日も早く日本に帰国して、愛する彼女を抱きしめるといい」
「心から感謝いたします。ありがとうございます、ユベール館長」
航志朗は館長と固く握手をした。
「それにしても、あの作品に作者の名前を掲示しないなんて、前代未聞だな。本当にそれでいいのか、コーシ? 無名の彼女にとって、世界じゅうのアートシーンに名を馳せるチャンスになるというのに」
「彼女がそう望んだんです。私は彼女のギャラリストとして、また夫としても、彼女の想いを支持します」
「そうか。コーシ、君の天使にこう伝えてほしい。いつかふたりでこの美術館に来なさいとね。その時は、私自らが館内をご案内してさしあげよう。丁重に彼女の手を取ってね」
鼻の下をわずかに伸ばしてにっこり笑った館長に、航志朗は苦笑を浮かべた。
ドミニクとブノワのアパルトマンで航志朗の送別会が開かれた。酒を飲まない航志朗のためにノンアルコールの厳重なルールが敷かれて、炭酸水やフルーツジュースで何回も乾杯した。メンバーたちがパリじゅうの人気のパティスリーを駆け回ってさまざまな種類のチョコレートの菓子をかき集めてきた。ドミニクが東京にいる安寿とオンラインでつながろうと言い出したが、あわてて時差を言いわけにして航志朗は断った。
陽気な仲間たちとの最後の時間を過ごした翌日、航志朗はオルセー美術館の近くにある老舗画材店で安寿のために油絵具のセットを買い求めた。航志朗は久しぶりに明るく晴れ渡ったパリの空を見上げた。それから、セーヌ川沿いを歩いて、星野蒼とアンヌが通うファッションスクールに行った。
スクールの事務室で尋ねると愛想のいい年配の事務スタッフがふたりのクラスに案内してくれた。ミシンの前で必要以上に蒼に寄り添ったアンヌがすぐに気づいて蒼の肩をつついた。蒼は航志朗に気づくと、急に不機嫌そうな表情をして立ち上がった。
「星野くん。仕事が終わって、今夜、パリを発つことになった。その前に君に話がある。ちょっといいかな」
無言で蒼は航志朗の後に続いた。ふたりはセーヌ川の川岸にやって来た。遠目には世界的に有名な歴史的建造物が立ち並んでいる。観光客にとっては絶好のフォトジェニックな撮影スポットなのだろうが、ふたりの男の目にはまったくのありふれた日常の光景だ。
セーヌ川の水面を見つめたまま、蒼が冷たい口調で訊いた。
「話ってなんですか、岸さん」
航志朗はまっすぐに蒼を見すえて言った。
「星野くん、率直に言うよ。俺と安寿は血が繋がっていない。そして、俺たちは心から愛し合っている。だから、君が安寿を手に入れる余地はない。君は、今、目の前にいる彼女を大切にするんだな」
目を合わさずに黙ったままの蒼を置いて航志朗は歩き出した。離れたところで心配そうに見守っていたアンヌのそばに行って航志朗は言った。
「アンヌ、ロマンとノアたちによろしく。俺はどこにいても君たちの幸せを心から祈っているよ」
「ありがとう、……コーシお兄さま」
別れを悟ったアンヌは目に涙を浮かべて航志朗に抱きつき、その頬にキスした。
その夜の最終便で航志朗はシャルル・ド・ゴール国際空港から北東へ向けて飛び立った。──ヘルシンキ・ヴァンター国際空港へ。フィンランドに滞在している古閑ルリに会いに行くために。
「あんなにも素晴らしい作品を無償で提供していただけるとは、大変心苦しい。君たちにささやかなお礼をしたい。コーシ、君の残りの契約期間を特別休暇にしよう。一日も早く日本に帰国して、愛する彼女を抱きしめるといい」
「心から感謝いたします。ありがとうございます、ユベール館長」
航志朗は館長と固く握手をした。
「それにしても、あの作品に作者の名前を掲示しないなんて、前代未聞だな。本当にそれでいいのか、コーシ? 無名の彼女にとって、世界じゅうのアートシーンに名を馳せるチャンスになるというのに」
「彼女がそう望んだんです。私は彼女のギャラリストとして、また夫としても、彼女の想いを支持します」
「そうか。コーシ、君の天使にこう伝えてほしい。いつかふたりでこの美術館に来なさいとね。その時は、私自らが館内をご案内してさしあげよう。丁重に彼女の手を取ってね」
鼻の下をわずかに伸ばしてにっこり笑った館長に、航志朗は苦笑を浮かべた。
ドミニクとブノワのアパルトマンで航志朗の送別会が開かれた。酒を飲まない航志朗のためにノンアルコールの厳重なルールが敷かれて、炭酸水やフルーツジュースで何回も乾杯した。メンバーたちがパリじゅうの人気のパティスリーを駆け回ってさまざまな種類のチョコレートの菓子をかき集めてきた。ドミニクが東京にいる安寿とオンラインでつながろうと言い出したが、あわてて時差を言いわけにして航志朗は断った。
陽気な仲間たちとの最後の時間を過ごした翌日、航志朗はオルセー美術館の近くにある老舗画材店で安寿のために油絵具のセットを買い求めた。航志朗は久しぶりに明るく晴れ渡ったパリの空を見上げた。それから、セーヌ川沿いを歩いて、星野蒼とアンヌが通うファッションスクールに行った。
スクールの事務室で尋ねると愛想のいい年配の事務スタッフがふたりのクラスに案内してくれた。ミシンの前で必要以上に蒼に寄り添ったアンヌがすぐに気づいて蒼の肩をつついた。蒼は航志朗に気づくと、急に不機嫌そうな表情をして立ち上がった。
「星野くん。仕事が終わって、今夜、パリを発つことになった。その前に君に話がある。ちょっといいかな」
無言で蒼は航志朗の後に続いた。ふたりはセーヌ川の川岸にやって来た。遠目には世界的に有名な歴史的建造物が立ち並んでいる。観光客にとっては絶好のフォトジェニックな撮影スポットなのだろうが、ふたりの男の目にはまったくのありふれた日常の光景だ。
セーヌ川の水面を見つめたまま、蒼が冷たい口調で訊いた。
「話ってなんですか、岸さん」
航志朗はまっすぐに蒼を見すえて言った。
「星野くん、率直に言うよ。俺と安寿は血が繋がっていない。そして、俺たちは心から愛し合っている。だから、君が安寿を手に入れる余地はない。君は、今、目の前にいる彼女を大切にするんだな」
目を合わさずに黙ったままの蒼を置いて航志朗は歩き出した。離れたところで心配そうに見守っていたアンヌのそばに行って航志朗は言った。
「アンヌ、ロマンとノアたちによろしく。俺はどこにいても君たちの幸せを心から祈っているよ」
「ありがとう、……コーシお兄さま」
別れを悟ったアンヌは目に涙を浮かべて航志朗に抱きつき、その頬にキスした。
その夜の最終便で航志朗はシャルル・ド・ゴール国際空港から北東へ向けて飛び立った。──ヘルシンキ・ヴァンター国際空港へ。フィンランドに滞在している古閑ルリに会いに行くために。