今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
東京では記録的な大雪が断続的に降り続いていた。厚く降り積もった雪が岸家の周辺を覆っている。
その朝、いつもと同じ時間に岸家に向かった咲は、連日の厳しい寒さに身体を震わせた。伊藤家から岸家に続く裏道は早起きした伊藤がすでに雪かきをしておいてくれた。
咲がサロンのカーテンを開けると、黒い長靴を履いた伊藤が門から邸宅のエントランスに続くアプローチの雪かきに汗を流しているのが見えた。続けて伊藤は母屋と離れをつなぐ通路の雪かきもした。まだ早朝だというのに、アトリエの窓には明かりが灯っている。
伊藤は苦い顔をしてひそかに思った。
(あの冬と同じような天候だな……)
安寿は自室のベッドでひとり目を覚ました。枕元に置いたスマートフォンの時刻を見ると、午前七時になっている。つい着信履歴も見てしまったが、そこに新着の記録はなかった。
安寿は深いため息をついた。一時期は航志朗からの毎晩の国際電話を心待ちにしていた。だが、それは過去のものになった。一月に航志朗と別れてから連絡は一度もなかった。それを安寿はかえってよかったと思っていたが、自分が心のどこかで航志朗からの電話を待っていることに気づいた。その胸を苦しくしめつける想いを払い落すかのように首を振ってから、安寿は検索エンジンの閲覧履歴を見た。そこには賃貸アパートの物件情報がたくさん並んでいる。
(ワンルームでも家賃ってけっこうかかるんだ。それに、連帯保証人って、いったい誰に頼んだらいいの)
安寿は肩を落として顔色をなくした。
咲が用意してくれた湯気の立つ朝食をとってから、白いドレスに着替えて安寿はアトリエに向かった。両手で押さえた口から白い息がもれる。手を擦り合わせてからノックしてアトリエのドアを開けると、窓辺にたたずんだ岸が外の風景を眺めているのが見えた。朝のあいさつをしてから、安寿は岸の隣に立って真っ白な雪に覆われた裏の森を見つめた。
自然に岸は安寿の肩を抱いて引き寄せた。何も言わずに安寿は岸に寄りかかりながら思った。
(岸先生とも、この雪が解けたらお別れなんだ)
穏やかな光を宿す琥珀色の瞳を安寿に注いで、岸は安寿の黒髪を優しくなでた。ほんのり頬を赤らめて安寿はうつむきながら思った。
(岸先生は、ママの髪もこんなふうになでていたのかな)
カウチソファの上で安寿はモデルのポーズをとった。安寿はだんだん自分の周囲が薄暗くなっていくのを感じた。予言めいた予感が安寿の頭の上に降って来た。
(今、私は何に向かって両手を広げているんだろう。わかってる。私は何にも向かっていない。ただ、この世の最後の光をこの手で慈しんでいるかのようだ。もうすぐこの光は私の手のひらの上から消えてしまう。そして、私は真っ暗な闇に落ちて行く……)
岸のアトリエには、画家がキャンバスの上に注意深く小刻みに動かす画筆の微かな音が聞こえてくるだけだ。もはや安寿の身体は微動だにせず、その肌は古代の石像のように冷たく硬直してきた。
だんだん遠くなっていく意識のなかで、安寿は左手の薬指を見つめた。その指には何もつけられていない。結婚指輪は薬指から外して、自室のデスクの引き出しの奥にしまった。
左手の薬指にわずかに残ったもうすでに色のない温もりがゆっくりと消えていくのを、安寿は透き通った瞳で静かに受け入れた。
その朝、いつもと同じ時間に岸家に向かった咲は、連日の厳しい寒さに身体を震わせた。伊藤家から岸家に続く裏道は早起きした伊藤がすでに雪かきをしておいてくれた。
咲がサロンのカーテンを開けると、黒い長靴を履いた伊藤が門から邸宅のエントランスに続くアプローチの雪かきに汗を流しているのが見えた。続けて伊藤は母屋と離れをつなぐ通路の雪かきもした。まだ早朝だというのに、アトリエの窓には明かりが灯っている。
伊藤は苦い顔をしてひそかに思った。
(あの冬と同じような天候だな……)
安寿は自室のベッドでひとり目を覚ました。枕元に置いたスマートフォンの時刻を見ると、午前七時になっている。つい着信履歴も見てしまったが、そこに新着の記録はなかった。
安寿は深いため息をついた。一時期は航志朗からの毎晩の国際電話を心待ちにしていた。だが、それは過去のものになった。一月に航志朗と別れてから連絡は一度もなかった。それを安寿はかえってよかったと思っていたが、自分が心のどこかで航志朗からの電話を待っていることに気づいた。その胸を苦しくしめつける想いを払い落すかのように首を振ってから、安寿は検索エンジンの閲覧履歴を見た。そこには賃貸アパートの物件情報がたくさん並んでいる。
(ワンルームでも家賃ってけっこうかかるんだ。それに、連帯保証人って、いったい誰に頼んだらいいの)
安寿は肩を落として顔色をなくした。
咲が用意してくれた湯気の立つ朝食をとってから、白いドレスに着替えて安寿はアトリエに向かった。両手で押さえた口から白い息がもれる。手を擦り合わせてからノックしてアトリエのドアを開けると、窓辺にたたずんだ岸が外の風景を眺めているのが見えた。朝のあいさつをしてから、安寿は岸の隣に立って真っ白な雪に覆われた裏の森を見つめた。
自然に岸は安寿の肩を抱いて引き寄せた。何も言わずに安寿は岸に寄りかかりながら思った。
(岸先生とも、この雪が解けたらお別れなんだ)
穏やかな光を宿す琥珀色の瞳を安寿に注いで、岸は安寿の黒髪を優しくなでた。ほんのり頬を赤らめて安寿はうつむきながら思った。
(岸先生は、ママの髪もこんなふうになでていたのかな)
カウチソファの上で安寿はモデルのポーズをとった。安寿はだんだん自分の周囲が薄暗くなっていくのを感じた。予言めいた予感が安寿の頭の上に降って来た。
(今、私は何に向かって両手を広げているんだろう。わかってる。私は何にも向かっていない。ただ、この世の最後の光をこの手で慈しんでいるかのようだ。もうすぐこの光は私の手のひらの上から消えてしまう。そして、私は真っ暗な闇に落ちて行く……)
岸のアトリエには、画家がキャンバスの上に注意深く小刻みに動かす画筆の微かな音が聞こえてくるだけだ。もはや安寿の身体は微動だにせず、その肌は古代の石像のように冷たく硬直してきた。
だんだん遠くなっていく意識のなかで、安寿は左手の薬指を見つめた。その指には何もつけられていない。結婚指輪は薬指から外して、自室のデスクの引き出しの奥にしまった。
左手の薬指にわずかに残ったもうすでに色のない温もりがゆっくりと消えていくのを、安寿は透き通った瞳で静かに受け入れた。