今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第8節
翌朝、ホテルのレストランで朝食をとってから航志朗は空港に向かった。珍しく早めに着いた空港の出発ロビーには世界的に人気のフィンランドブランドの店が立ち並んでいて、日本人女性たちでにぎわっていた。おそらく航志朗と同じ成田空港行きの便に搭乗する客なのだろう。その現地での最後のショッピングを楽しむ様子を見て、安寿への土産を買っていこうと思い立った航志朗はショップを回って機嫌よく物色し始めた。
その日の朝も日本列島には冬型の寒気が流れ込んでいて凍てつくような寒さだった。
朝からずっと安寿は岸のモデルになっていた。カウチソファの右隣には石油ストーブが置かれていて、右側の頬と腕だけは熱を持っている。岸の真剣なまなざしと、画家の画筆が安寿の姿を吸い取ってキャンバスの上に奏でる音と、そして、石油の重たい匂いだけがアトリエの中の世界を構築している。
何も安寿は考えられなくなっていた。岸が自分のことを「愛」と呼ぶようになったのは、いつのことだったのか。それを不快にも不審にもまったく思わない自分が不思議だ。
そういえば、朝からときどき岸の画筆が止まっていた。窓の外が真っ暗になってきてから安寿はそのことに気がついた。しきりに岸は額に浮かんだ汗をセーターの袖でぬぐっていた。それに咳込んだり、きつく胸を押さえたりしている。
その様子を見て、突然、安寿は正気に戻った。
(岸先生、お身体の具合が悪いんじゃないの!)
あわてて安寿は立ち上がってふらつきながらも駆け寄り、うつむいた岸の隣にかがんで叫ぶように問いかけた。
「岸先生、大丈夫ですか!」
安寿を見つめた岸の顔は蒼白になっていた。目のまわりがくぼんで暗い影ができている。衰弱しきった様子で安寿の頬に手を触れて、岸は何かを安寿に言おうとした。
その瞬間、岸は椅子から崩れ落ちて床に倒れ込んだ。安寿は悲鳴をあげて岸の名前を大声で呼んだ。
「岸先生! 岸先生!」
すぐに安寿は伊藤に助けを求めようとスマートフォンを手に取ってタップした。呼び出し音がいやに緩慢に耳に響く。きつくスマートフォンを握りしめた安寿は倒れた岸の背中をさすりながら胸の内で叫んだ。
(伊藤さん、早く出て! お願い、伊藤さん、早く!)
その時、空港の搭乗待合室で航志朗は長椅子に座って搭乗ゲートが開くのを待っていた。優先客の搭乗が始まった。目の前を車椅子の乗客と小さな赤ちゃんを抱いた母親が通ってゲートに入って行った。続いてファーストクラスの乗客がゲートに入場した。次はビジネスクラスだ。航志朗は腰を浮かした。横を見ると、すでにエコノミークラスの乗客が列をなしていた。いつもの見慣れた光景だが、今回は違う。航志朗の胸はいつになく高鳴っていた。脇に置いた免税店のショッピングバッグを見て思わず口元をゆるませる。
その時、ダウンジャケットの内ポケットにしまったスマートフォンが鳴り出した。
「ん?」
ポケットから取り出して画面を見ると安寿からだった。今まで安寿から電話がかかってくるのは滅多になかった。思わず顔をほころばせた航志朗はすぐに通話に出て、安寿の名前を愛おしそうに呼んだ。
「安寿!」
いきなり航志朗の耳に安寿のつんざくような叫び声が飛び込んできた。
『早く来て、伊藤さん! 早く、早く、岸先生が、……岸先生が!』
見るまに顔色を変えた航志朗が怒鳴った。
「安寿、どうしたんだ!」
安寿は目を大きく見開いた。確かに自分の名前を呼ぶ航志朗の声が聞こえた。あわてて画面を見ると「岸航志朗」と表示されている。かけ間違えたのだ。安寿はすぐに伊藤にかけ直そうと震える指で画面をタップしようとした。その時、岸が安寿の腕をきつくつかんだ。岸は苦しそうに低い声でうめきながら、荒い息でとぎれとぎれに言った。
「安寿さん。もうこれで終わりだ。私があなたを描くのは……。あなたは一日でも早く航志朗と離婚して、この家を出て行きなさい。ここは、あなたのいるところじゃない。そして、航志朗は、あなたを幸せにできない。……いいね、安寿さん」
そう言うと、岸は目を閉じて意識を失った。
安寿は真っ青になって叫んだ。
「早く、早く、帰って来て、航志朗さん! 早く、……航志朗さん!」
その日の朝も日本列島には冬型の寒気が流れ込んでいて凍てつくような寒さだった。
朝からずっと安寿は岸のモデルになっていた。カウチソファの右隣には石油ストーブが置かれていて、右側の頬と腕だけは熱を持っている。岸の真剣なまなざしと、画家の画筆が安寿の姿を吸い取ってキャンバスの上に奏でる音と、そして、石油の重たい匂いだけがアトリエの中の世界を構築している。
何も安寿は考えられなくなっていた。岸が自分のことを「愛」と呼ぶようになったのは、いつのことだったのか。それを不快にも不審にもまったく思わない自分が不思議だ。
そういえば、朝からときどき岸の画筆が止まっていた。窓の外が真っ暗になってきてから安寿はそのことに気がついた。しきりに岸は額に浮かんだ汗をセーターの袖でぬぐっていた。それに咳込んだり、きつく胸を押さえたりしている。
その様子を見て、突然、安寿は正気に戻った。
(岸先生、お身体の具合が悪いんじゃないの!)
あわてて安寿は立ち上がってふらつきながらも駆け寄り、うつむいた岸の隣にかがんで叫ぶように問いかけた。
「岸先生、大丈夫ですか!」
安寿を見つめた岸の顔は蒼白になっていた。目のまわりがくぼんで暗い影ができている。衰弱しきった様子で安寿の頬に手を触れて、岸は何かを安寿に言おうとした。
その瞬間、岸は椅子から崩れ落ちて床に倒れ込んだ。安寿は悲鳴をあげて岸の名前を大声で呼んだ。
「岸先生! 岸先生!」
すぐに安寿は伊藤に助けを求めようとスマートフォンを手に取ってタップした。呼び出し音がいやに緩慢に耳に響く。きつくスマートフォンを握りしめた安寿は倒れた岸の背中をさすりながら胸の内で叫んだ。
(伊藤さん、早く出て! お願い、伊藤さん、早く!)
その時、空港の搭乗待合室で航志朗は長椅子に座って搭乗ゲートが開くのを待っていた。優先客の搭乗が始まった。目の前を車椅子の乗客と小さな赤ちゃんを抱いた母親が通ってゲートに入って行った。続いてファーストクラスの乗客がゲートに入場した。次はビジネスクラスだ。航志朗は腰を浮かした。横を見ると、すでにエコノミークラスの乗客が列をなしていた。いつもの見慣れた光景だが、今回は違う。航志朗の胸はいつになく高鳴っていた。脇に置いた免税店のショッピングバッグを見て思わず口元をゆるませる。
その時、ダウンジャケットの内ポケットにしまったスマートフォンが鳴り出した。
「ん?」
ポケットから取り出して画面を見ると安寿からだった。今まで安寿から電話がかかってくるのは滅多になかった。思わず顔をほころばせた航志朗はすぐに通話に出て、安寿の名前を愛おしそうに呼んだ。
「安寿!」
いきなり航志朗の耳に安寿のつんざくような叫び声が飛び込んできた。
『早く来て、伊藤さん! 早く、早く、岸先生が、……岸先生が!』
見るまに顔色を変えた航志朗が怒鳴った。
「安寿、どうしたんだ!」
安寿は目を大きく見開いた。確かに自分の名前を呼ぶ航志朗の声が聞こえた。あわてて画面を見ると「岸航志朗」と表示されている。かけ間違えたのだ。安寿はすぐに伊藤にかけ直そうと震える指で画面をタップしようとした。その時、岸が安寿の腕をきつくつかんだ。岸は苦しそうに低い声でうめきながら、荒い息でとぎれとぎれに言った。
「安寿さん。もうこれで終わりだ。私があなたを描くのは……。あなたは一日でも早く航志朗と離婚して、この家を出て行きなさい。ここは、あなたのいるところじゃない。そして、航志朗は、あなたを幸せにできない。……いいね、安寿さん」
そう言うと、岸は目を閉じて意識を失った。
安寿は真っ青になって叫んだ。
「早く、早く、帰って来て、航志朗さん! 早く、……航志朗さん!」