今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
一人になった安寿は自分の荷物をまとめ始めた。シルバーのスーツケースに服を小さくたたんで収めた。大学で使っている書籍をブックシェルフから取り出してデスクの上に積み上げた。安寿の私物は本当に少ない。あとは絵の道具と習作が描かれたスケッチブック、手元に残った作品だけだ。
安寿はブックシェルフを見上げた。今まで航志朗から贈られた数々の品が並んでいる。航志朗とのたくさんの思い出を思い起こさせる品々だ。安寿は天板の上の航志朗が描いた花畑の絵を見つめた。もう二度と見ることはない絵を。安寿は瑠璃色の天然岩絵具の残りの入ったガラス瓶と熊本の海で拾った白い小石だけを手に取ってスーツケースの中に入れた。あとは全部置いていくつもりだ。安寿はベッドの上に座って、部屋の中を見回した。
(ここに四年間も住んでいたのに、出て行くとなったら簡単なんだ。本当にあっけない)
航志朗はスーツケースを客間に運んでから、畳の上に寝そべった。焦点の合わない目をして天井を見上げて航志朗は胸の内でつぶやいた。
(絶対にありえない。安寿と離婚するなんて。きっと、安寿は父が目の前で倒れたことに気が動転しているんだ)
寒さにぶるっと震えて航志朗は目を開けた。ダウンジャケットを着たままでうたた寝をしていたらしい。スマートフォンの時計を見ると午後六時だった。一階の廊下に出ると昆布だしの香りがしてきた。咲が夕食の支度をしているのだろう。航志朗は台所に顔を出した。白い割烹着を着た咲が土鍋でおでんを煮込んでいるのが見えた。
「咲さん、今夜はおでんですか。このところずっとパリで脂っこい食事をしていたのでありがたいです」
ぼんやりとした咲は何も答えなかった。
「咲さん?」
肩をびくっとさせて咲が航志朗に気づいて言った。
「ごめんなさい、航志朗坊っちゃん」
「咲さん、伊藤さんは?」
「秀爾さんは今朝病院から帰って来ると、すぐにどこかへ出かけました。まだ帰って来ていません」
航志朗は表情を曇らせた。なぜか嫌な予感がした。
「航志朗坊っちゃん、もうすぐお夕食のご準備ができます。安寿さまを呼んできていただけますか」
再び航志朗は安寿の部屋の前に行った。ドア越しに中をうかがうが、しんと静まり返っている。部屋のドアをノックして航志朗が言った。
「安寿、夕食の時間だ。一緒に食べよう」
返事がなかった。しばらくそのまま待ってから、勢いをつけてドアを開けた。中は真っ暗だ。ライトをつけたが、そこに安寿の姿はなかった。それに気づいて、航志朗はぎょっと目をむいた。横倒しになったスーツケースには几帳面に安寿の服が収納されていて、デスクの上には本が山積みになっている。
(安寿は本気でここを出て行くつもりなのか。ここを出て、いったいどこに行くんだ)
すぐに駆け出して、航志朗は父のアトリエに向かった。この屋敷の中で安寿がいる場所といえば、あとはアトリエしかない。
アトリエのドアは開いていた。アトリエの中も真っ暗だ。その時、凍えるように冷たい風が航志朗の身体に刺すように触れた。
「……安寿?」
裏の森へ面した窓を開け放って安寿が窓辺に立っていた。安寿の長い黒髪が極寒の風に吹かれてなびいていた。安寿は振り返って航志朗を見つめた。凍てつく月の光を浴びて、安寿の身体が青白く光っている。窓枠が白い雪に覆われた森を背景にして安寿の姿を切り取っている。その一枚の絵画のようなあまりの美しさに航志朗は背筋をぞくっとさせて言葉を失くした。今にも安寿の姿は白い雪の中に消えてしまいそうだ。航志朗は駆け出して安寿を腕の中に抱きしめた。安寿の身体は氷のように冷えて固くなっている。
航志朗はできうる限りの優しい声を出して言った。
「さあ、安寿。暖かい部屋に戻ろう。ここにいたら風邪をひいてしまうだろ」
航志朗は安寿の肩を抱いて母屋に戻った。そして、温かい食事室に入って安寿を椅子に座らせた。すぐに咲が夕食の用意をした。航志朗は安寿のために湯気の立つおでんを器によそった。
「冷えた身体を温めよう。いただこうか、安寿」
「いただきます」と小さな声で言って頭を下げた安寿は、行儀よくおでんの具を口に運び始めた。安寿を見て肩を落とした航志朗も食べ始めた。食事室のすみでふたりの姿を見守っていた咲は割烹着の裾で目尻を拭きながら台所に戻った。だが、安寿は少し口にしただけで箸を下に置いて、また頭を下げて言った。
「ごちそうさまでした」
安寿は立ち上がって食事室を出て行った。表情を曇らせて航志朗は安寿を見送るしかなかった。
安寿はブックシェルフを見上げた。今まで航志朗から贈られた数々の品が並んでいる。航志朗とのたくさんの思い出を思い起こさせる品々だ。安寿は天板の上の航志朗が描いた花畑の絵を見つめた。もう二度と見ることはない絵を。安寿は瑠璃色の天然岩絵具の残りの入ったガラス瓶と熊本の海で拾った白い小石だけを手に取ってスーツケースの中に入れた。あとは全部置いていくつもりだ。安寿はベッドの上に座って、部屋の中を見回した。
(ここに四年間も住んでいたのに、出て行くとなったら簡単なんだ。本当にあっけない)
航志朗はスーツケースを客間に運んでから、畳の上に寝そべった。焦点の合わない目をして天井を見上げて航志朗は胸の内でつぶやいた。
(絶対にありえない。安寿と離婚するなんて。きっと、安寿は父が目の前で倒れたことに気が動転しているんだ)
寒さにぶるっと震えて航志朗は目を開けた。ダウンジャケットを着たままでうたた寝をしていたらしい。スマートフォンの時計を見ると午後六時だった。一階の廊下に出ると昆布だしの香りがしてきた。咲が夕食の支度をしているのだろう。航志朗は台所に顔を出した。白い割烹着を着た咲が土鍋でおでんを煮込んでいるのが見えた。
「咲さん、今夜はおでんですか。このところずっとパリで脂っこい食事をしていたのでありがたいです」
ぼんやりとした咲は何も答えなかった。
「咲さん?」
肩をびくっとさせて咲が航志朗に気づいて言った。
「ごめんなさい、航志朗坊っちゃん」
「咲さん、伊藤さんは?」
「秀爾さんは今朝病院から帰って来ると、すぐにどこかへ出かけました。まだ帰って来ていません」
航志朗は表情を曇らせた。なぜか嫌な予感がした。
「航志朗坊っちゃん、もうすぐお夕食のご準備ができます。安寿さまを呼んできていただけますか」
再び航志朗は安寿の部屋の前に行った。ドア越しに中をうかがうが、しんと静まり返っている。部屋のドアをノックして航志朗が言った。
「安寿、夕食の時間だ。一緒に食べよう」
返事がなかった。しばらくそのまま待ってから、勢いをつけてドアを開けた。中は真っ暗だ。ライトをつけたが、そこに安寿の姿はなかった。それに気づいて、航志朗はぎょっと目をむいた。横倒しになったスーツケースには几帳面に安寿の服が収納されていて、デスクの上には本が山積みになっている。
(安寿は本気でここを出て行くつもりなのか。ここを出て、いったいどこに行くんだ)
すぐに駆け出して、航志朗は父のアトリエに向かった。この屋敷の中で安寿がいる場所といえば、あとはアトリエしかない。
アトリエのドアは開いていた。アトリエの中も真っ暗だ。その時、凍えるように冷たい風が航志朗の身体に刺すように触れた。
「……安寿?」
裏の森へ面した窓を開け放って安寿が窓辺に立っていた。安寿の長い黒髪が極寒の風に吹かれてなびいていた。安寿は振り返って航志朗を見つめた。凍てつく月の光を浴びて、安寿の身体が青白く光っている。窓枠が白い雪に覆われた森を背景にして安寿の姿を切り取っている。その一枚の絵画のようなあまりの美しさに航志朗は背筋をぞくっとさせて言葉を失くした。今にも安寿の姿は白い雪の中に消えてしまいそうだ。航志朗は駆け出して安寿を腕の中に抱きしめた。安寿の身体は氷のように冷えて固くなっている。
航志朗はできうる限りの優しい声を出して言った。
「さあ、安寿。暖かい部屋に戻ろう。ここにいたら風邪をひいてしまうだろ」
航志朗は安寿の肩を抱いて母屋に戻った。そして、温かい食事室に入って安寿を椅子に座らせた。すぐに咲が夕食の用意をした。航志朗は安寿のために湯気の立つおでんを器によそった。
「冷えた身体を温めよう。いただこうか、安寿」
「いただきます」と小さな声で言って頭を下げた安寿は、行儀よくおでんの具を口に運び始めた。安寿を見て肩を落とした航志朗も食べ始めた。食事室のすみでふたりの姿を見守っていた咲は割烹着の裾で目尻を拭きながら台所に戻った。だが、安寿は少し口にしただけで箸を下に置いて、また頭を下げて言った。
「ごちそうさまでした」
安寿は立ち上がって食事室を出て行った。表情を曇らせて航志朗は安寿を見送るしかなかった。