今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 次の日の朝が来たが、食事室には安寿も航志朗もやって来ない。冷たくなったおにぎりを前にして、食事室の椅子に深く腰掛けた咲は心労がたまった顔を両手で覆った。

 そこへ物音がして顔を上げると、伊藤が黒い漆塗りの文箱を手に持って入って来た。不思議に思った咲は伊藤に尋ねた。

 「秀爾さん、その箱は何ですか?」

 その問いには答えずに、伊藤は咲にごく事務的に言い渡した。

 「咲、昼食の準備ができたら、夕食の準備を始めるまで自宅に行っていてくれ」

 咲は伊藤の口調に胸を騒がせるような重苦しい空気が含まれているような気がしてならなかった。

 いぶかしげに咲は伊藤を見つめてから冷ややかな口調で言った。

 「私は、岸家のことについて疑問を持ってはいけないんですよね、秀爾さん?」

 伊藤は何も答えずにサロンに行ってしまった。その後ろ姿を見送った咲はあきらめた様子で肩を落として下を向いた。

 そこへ寝起きの航志朗がパジャマの上にセーターを着て食事室に入って来た。あわてて咲は立ち上がって穏やかな微笑を作り航志朗を迎えた。

 「おはようございます、航志朗坊っちゃん。朝食におにぎりをいかがですか。今、お味噌汁を温め直してきますね」

 憔悴しきった表情で航志朗が尋ねた。

 「……安寿は?」

 「安寿さまはまだいらしていません。今までご一緒ではなかったんですか?」

 怪訝そうに咲は顔をしかめた。

 何も答えずに航志朗は冷たいおにぎりを黙々と食べ始めた。

 いったん客間に戻って着替えた航志朗は、険しい表情でサロンのソファに座って腕を組んだ。

 咲が熱いコーヒーを淹れて来た。湯気を立ちのぼらせる黒い液体を見て、航志朗はすまなそうに咲に言った。

 「ありがとうございます、咲さん。申しわけないのですが、実は、コーヒーが苦手になってしまって」

 咲は目をまん丸くした。すぐに台所に戻って緑茶を淹れ直して持って来た。航志朗は咲に礼を言って緑茶を啜った。

 グランドピアノの上に置かれた黒い文箱が目に入ったが、特に航志朗は気に留めなかった。窓の外を見るとやけに空が白っぽくて重たい感じがする。(これから雪が降るのかもしれないな)となんの気なしに航志朗は思った。

 布団の中で目覚めた安寿は手をシーツに這わせて何かを探した。何も手ごたえはなかった。胸の奥がわずかにきしんだような気がしたが、きっとその音は空耳だ。もうろうとした頭をもたげて安寿は目をこすりながら窓辺を見た。レースカーテンの向こうは薄暗い。霞のような冷気が足元を漂っているのを感じる。安寿は両手を擦り合わせると、スーツケースの中からウールポプリンの黒いスーツと白いブラウスを取り出して着替えた。それから、二階の奥にある洗面台で顔を洗ってから薄化粧をして身支度を整えた。

 サロンのソファに座って航志朗はぼんやりとしていた。そこへきちんとした服装をした安寿がやって来た。安寿は航志朗の前に立つと丁寧にお辞儀をして言った。

 「おはようございます、岸さん」

 ため息をついてから航志朗は低い声で言った。

 「……おはよう、安寿」

 にべもなく安寿は航志朗の前から立ち去った。遠ざかって行く安寿の背中を見て航志朗は顔をしかめてこぶしを握りしめた。

 安寿は食事室から台所に入って、昼食の支度をしている咲に普段と変わらずにあいさつをした。

 「おはようございます、咲さん」

 思わず咲は安寿の肩に手を触れて沈痛な面持ちで尋ねた。

 「安寿さま、昨夜はよく眠れましたか?」

 安寿は下を向いて言った。

 「はい。ありがとうございます、咲さん」

 「安寿さま……」

 「咲さん、私、お手伝いしますね」と言うと、安寿は咲の隣に立ってシンクの中に置いてあった鍋や食器を洗い始めた。冷たい水はたちまち安寿の手を赤く染めた。あわてて咲はガス給湯器をつけた。

 後ろから航志朗が茶托にのせた空の煎茶椀を持って台所に入って来た。咲は困惑した顔で航志朗を見つめた。「俺が洗うよ」と言って、航志朗は横から手を出して安寿が持っている泡のついたスポンジを取り上げた。その時、安寿が結婚指輪をしていないことに航志朗は気づいた。急速に血の気が引いていくのを航志朗は自覚した。

 (うそだろ、安寿は本気で俺と離婚するつもりなのか……)

< 432 / 471 >

この作品をシェア

pagetop