今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
昼食の準備が終わると、伊藤の言いつけ通りに咲は自宅に戻って行った。食事室のドアのすき間から安寿と航志朗を見て、咲は胸騒ぎを覚えた。サロンのソファに向かい合わせで黙って座ったふたりの間に言いようのない遠いへだたりがあるような気がしたのだ。
台所の勝手口から外に出て両手を擦り合わせて空を見上げると、波打った灰色の低い雲が見えた。胸を痛めながら咲は思った。
(安寿さまがあんな格好でモデルになられていたことに、きっと航志朗坊っちゃんは腹をたてているのね。それにしても、今夜は大雪になりそう……)
航志朗はずっと黙ったままでうつむいた安寿を腕を組んで見つめていた。
正午になった。少し顔を上げたものの焦点が合っていない瞳をして安寿が尋ねた。
「ご昼食にされますか、岸さん」
顔をしかめた航志朗は何も答えない。
安寿は立ち上がって言った。
「これから、ご昼食の準備をいたします」
台所に行こうとした安寿を、突然立ち上がった航志朗が後ろからきつく抱きしめた。だらんと安寿は両手をぶら下げた。安寿の黒髪に顔をうずめて航志朗は低くうめいた。
「安寿、俺は君を心から愛しているんだ。絶対に君と別れたくない……」
小声だが安寿は迷いなく言った。
「四年前の春、私たちは三つの契約をして婚姻届を提出しました。おととい、私の岸先生のモデルとしての役割は終わりましたので、契約を履行する時が来ました」
「安寿、俺は君と離婚するなんて絶対にできない!」
「契約は契約です。岸さん」
航志朗は安寿に回した手を離してその場にしゃがみ込んだ。振り返りもせずに安寿は台所に行った。台所で安寿は咲が茹でておいたうどんと天ぷらを温め直して食事室のテーブルに並べた。うなだれた航志朗が食事室の椅子に座った。弱々しく航志朗は肘をついてうどんを啜り出した。椅子に座ったままで安寿は動かない。上目遣いで安寿を見て航志朗が尋ねた。
「……食べないのか、安寿?」
安寿は返事をするかのように下を向いた。
食事室に伊藤が入って来た。昨日帰国してから、初めて伊藤の姿を航志朗は見た。表情を曇らせた伊藤が言いづらそうにふたりに言った。
「安寿さま、航志朗坊っちゃん。お食事がお済みになられましたら、サロンにいらしてくださいませ。お話がございます」
その言葉に安寿は立ち上がるとサロンに行った。顔をしかめた航志朗は故意にだらだらと食事を続けた。
長い昼食が済んだ航志朗がサロンのドアを開けた。ソファに安寿が座っていて、その隣に伊藤が立っていた。ローテーブルの上には黒い漆塗りの文箱が置かれていた。伊藤が安寿の向かい側に座るように航志朗をうながした。航志朗は乱暴にソファに腰を下ろして腕と足を組んだ。
安寿と航志朗にそれぞれお辞儀をしてから伊藤が切り出した。
「おふたりにご報告申しあげます。宗嗣さまはいまだに意識が戻らず、小康状態を保っておられます」
その言葉を聞いて安寿が身体を硬直させたことに航志朗は気づいて表情をゆがめた。
伊藤は続けて一言一句丁重に言った。
「おとといの夜、救急車の中で一時的に意識を取り戻された宗嗣さまは、こう私におっしゃいました。『契約通りに安寿さまと航志朗坊っちゃんの離婚の手続きをするように』と」
きつく目を閉じて伊藤はうつむいた。
「それでは今から、四年前の契約通りにおふたりの離婚の手続きを始めさせていただきます。こちらに……」
伊藤の言葉をさえぎって航志朗が大声で怒鳴った。
「俺は離婚なんてしない!」
「航志朗坊っちゃん……」
伊藤の声は震えている。
落ち着いた声で安寿が言った。
「伊藤さん、どうぞ続けてください」
「はい、安寿さま。こちらに離婚届をご用意させていただきました」
そう言うと伊藤は黒い文箱を開けた。微かに震える手で離婚届の用紙を中から取り出してローテーブルに広げた。その隣には黒い万年筆を置いた。
「安寿さまには、これまでのモデル料と岸家からの慰謝料をご用意いたしました。こちらに入金してありますのでお納めください」
伊藤は預金通帳と印鑑ケースを箱の中から取り出して安寿の手前に置いた。
安寿は目の前に置かれたものを見もせずにはっきりと冷静に言った。
「伊藤さん、私はこの四年間岸家に大変お世話になってきました。ですから、こちらをいただくことはできません」
安寿の目を見て伊藤は強い口調で言った。
「安寿さま、どうかお受け取りください。こちらは安寿さまのお金でございます」
膝にのせた手を握りしめて安寿はうつむいた。
「それから、安寿さまの新しいお住まいが決まるまで、私が責任を持ってお手伝いいたしますので、どうぞご安心くださいませ」
安寿は顔を上げて真剣なまなざしで伊藤に言い聞かせるように言った。
「それは大丈夫です、伊藤さん。とりあえず、大学の近くの公営住宅に部屋を借りようと思っています。保証人が不要なので」
(安寿はそこまで考えていたのか……)
航志朗は後頭部をいきなり殴られたような強い衝撃を受けた。
安寿は万年筆を手に持つと離婚届に記入していった。いったん「妻の父」の記入欄で安寿は手を止めたが、空欄のままにした。最後に安寿は自分の名前を他人事のように淡々と書いた。
あっという間の目の前の出来事に航志朗は呆然とした。離婚届に安寿が記入し終えると、耐えきれずに航志朗はうめき声をもらした。
「あ、安寿……」
安寿は航志朗の目の前にキャップを外したままの万年筆を置いた。航志朗は黒光りする万年筆を険しい表情でにらみつけた。
帰国してから一度も目を合わせてこない安寿を見てから、航志朗は伊藤に言った。
「伊藤さん、席を外していただけますか」
要請ではない強制の響きが航志朗の声に重く込められている。青ざめた伊藤は深々とお辞儀をしてからサロンを何も言わずに出て行った。
台所の勝手口から外に出て両手を擦り合わせて空を見上げると、波打った灰色の低い雲が見えた。胸を痛めながら咲は思った。
(安寿さまがあんな格好でモデルになられていたことに、きっと航志朗坊っちゃんは腹をたてているのね。それにしても、今夜は大雪になりそう……)
航志朗はずっと黙ったままでうつむいた安寿を腕を組んで見つめていた。
正午になった。少し顔を上げたものの焦点が合っていない瞳をして安寿が尋ねた。
「ご昼食にされますか、岸さん」
顔をしかめた航志朗は何も答えない。
安寿は立ち上がって言った。
「これから、ご昼食の準備をいたします」
台所に行こうとした安寿を、突然立ち上がった航志朗が後ろからきつく抱きしめた。だらんと安寿は両手をぶら下げた。安寿の黒髪に顔をうずめて航志朗は低くうめいた。
「安寿、俺は君を心から愛しているんだ。絶対に君と別れたくない……」
小声だが安寿は迷いなく言った。
「四年前の春、私たちは三つの契約をして婚姻届を提出しました。おととい、私の岸先生のモデルとしての役割は終わりましたので、契約を履行する時が来ました」
「安寿、俺は君と離婚するなんて絶対にできない!」
「契約は契約です。岸さん」
航志朗は安寿に回した手を離してその場にしゃがみ込んだ。振り返りもせずに安寿は台所に行った。台所で安寿は咲が茹でておいたうどんと天ぷらを温め直して食事室のテーブルに並べた。うなだれた航志朗が食事室の椅子に座った。弱々しく航志朗は肘をついてうどんを啜り出した。椅子に座ったままで安寿は動かない。上目遣いで安寿を見て航志朗が尋ねた。
「……食べないのか、安寿?」
安寿は返事をするかのように下を向いた。
食事室に伊藤が入って来た。昨日帰国してから、初めて伊藤の姿を航志朗は見た。表情を曇らせた伊藤が言いづらそうにふたりに言った。
「安寿さま、航志朗坊っちゃん。お食事がお済みになられましたら、サロンにいらしてくださいませ。お話がございます」
その言葉に安寿は立ち上がるとサロンに行った。顔をしかめた航志朗は故意にだらだらと食事を続けた。
長い昼食が済んだ航志朗がサロンのドアを開けた。ソファに安寿が座っていて、その隣に伊藤が立っていた。ローテーブルの上には黒い漆塗りの文箱が置かれていた。伊藤が安寿の向かい側に座るように航志朗をうながした。航志朗は乱暴にソファに腰を下ろして腕と足を組んだ。
安寿と航志朗にそれぞれお辞儀をしてから伊藤が切り出した。
「おふたりにご報告申しあげます。宗嗣さまはいまだに意識が戻らず、小康状態を保っておられます」
その言葉を聞いて安寿が身体を硬直させたことに航志朗は気づいて表情をゆがめた。
伊藤は続けて一言一句丁重に言った。
「おとといの夜、救急車の中で一時的に意識を取り戻された宗嗣さまは、こう私におっしゃいました。『契約通りに安寿さまと航志朗坊っちゃんの離婚の手続きをするように』と」
きつく目を閉じて伊藤はうつむいた。
「それでは今から、四年前の契約通りにおふたりの離婚の手続きを始めさせていただきます。こちらに……」
伊藤の言葉をさえぎって航志朗が大声で怒鳴った。
「俺は離婚なんてしない!」
「航志朗坊っちゃん……」
伊藤の声は震えている。
落ち着いた声で安寿が言った。
「伊藤さん、どうぞ続けてください」
「はい、安寿さま。こちらに離婚届をご用意させていただきました」
そう言うと伊藤は黒い文箱を開けた。微かに震える手で離婚届の用紙を中から取り出してローテーブルに広げた。その隣には黒い万年筆を置いた。
「安寿さまには、これまでのモデル料と岸家からの慰謝料をご用意いたしました。こちらに入金してありますのでお納めください」
伊藤は預金通帳と印鑑ケースを箱の中から取り出して安寿の手前に置いた。
安寿は目の前に置かれたものを見もせずにはっきりと冷静に言った。
「伊藤さん、私はこの四年間岸家に大変お世話になってきました。ですから、こちらをいただくことはできません」
安寿の目を見て伊藤は強い口調で言った。
「安寿さま、どうかお受け取りください。こちらは安寿さまのお金でございます」
膝にのせた手を握りしめて安寿はうつむいた。
「それから、安寿さまの新しいお住まいが決まるまで、私が責任を持ってお手伝いいたしますので、どうぞご安心くださいませ」
安寿は顔を上げて真剣なまなざしで伊藤に言い聞かせるように言った。
「それは大丈夫です、伊藤さん。とりあえず、大学の近くの公営住宅に部屋を借りようと思っています。保証人が不要なので」
(安寿はそこまで考えていたのか……)
航志朗は後頭部をいきなり殴られたような強い衝撃を受けた。
安寿は万年筆を手に持つと離婚届に記入していった。いったん「妻の父」の記入欄で安寿は手を止めたが、空欄のままにした。最後に安寿は自分の名前を他人事のように淡々と書いた。
あっという間の目の前の出来事に航志朗は呆然とした。離婚届に安寿が記入し終えると、耐えきれずに航志朗はうめき声をもらした。
「あ、安寿……」
安寿は航志朗の目の前にキャップを外したままの万年筆を置いた。航志朗は黒光りする万年筆を険しい表情でにらみつけた。
帰国してから一度も目を合わせてこない安寿を見てから、航志朗は伊藤に言った。
「伊藤さん、席を外していただけますか」
要請ではない強制の響きが航志朗の声に重く込められている。青ざめた伊藤は深々とお辞儀をしてからサロンを何も言わずに出て行った。