今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
二人きりになると航志朗は安寿に命令するようなきつい口調で言い渡した。
「絶対に俺は離婚しない。いいな、安寿」
航志朗は安寿の目を見つめた。ずっと安寿は無表情のままだ。何を考えているのかまったくわからない。
突然「では、私はこれで失礼いたします」と言って安寿は立ち上がった。今すぐにこの屋敷から出て行ってしまいそうな態度だ。
じりじりと追い詰められながら、航志朗は安寿をここに引き留める方法を必死になって考えた。だが、まったく何も出てこない。あせった航志朗の胸の鼓動が早まって、耳の奥まで拍動が大きく響く。
居ても立っても居られずに航志朗も立ち上がった。航志朗はサロンから出て行こうとした安寿の背中に向かって大声を出して言った。
「安寿、待ってくれ! 君にお願いがある」
立ち止まった安寿は振り返って航志朗を見た。やっと安寿と目を合わせられたというのに、他人行儀な冷たい視線だ。かすれた声でしぼり出すように航志朗は言った。
「離婚する前に、俺は、……君の絵を描きたい」
一瞬、安寿の瞳の奥が光った。安寿は航志朗を見すえて静かに答えた。
「わかりました。では、アトリエでお待ちください」
そう言うと安寿は音を立てずにサロンを出て行った。
一人になった航志朗は両足の力が抜けてソファにしゃがみ込んだ。思いがけず自分が口に出してしまった言葉に航志朗は深くうつむいて頭を抱えた。
(俺は、なんてことを言ってしまったんだ。この俺が、今の安寿を描けるわけがないだろう……)
空白の時間が刻一刻と過ぎていった。
その規則的な音に気づいて航志朗は顔を上げた。この屋敷が建てられた当初からサロンの壁に掛けられている古時計が時を刻む音だ。時計のレトロな文字盤を見ると、長針と短針が直角をつくって午後三時をさしている。意を決して航志朗は立ち上がると、アトリエに向かった。
母屋の通用口を出ると、航志朗は身体じゅうを震わせた。かなり気温が下がってきた。今にも雪が降ってきそうだ。
一度深呼吸をしてからアトリエのドアを開けた。意外にも中は温かい。石油ストーブの赤い炎が航志朗の目に入った。
窓辺を見て航志朗は息を呑んだ。真紅の肘掛け椅子に安寿が腰掛けて窓の外を眺めていた。安寿はあのワンピースを着ている。結婚したばかりの時に航志朗が贈った羽根のような刺繍がほどこされたネイビーのワンピースだ。初めてふたりが身体を重ねた時も安寿は直前まであのワンピースを身にまとっていた。
安寿は航志朗がアトリエにやって来たことに気づいて振り返った。やはり安寿は無表情のままだ。
(今、安寿が俺に微笑みかけてくれたら……)
あの愛おしくてたまらない笑顔を思わず想像すると航志朗は瞳の奥が刺すように痛くなった。
無言で航志朗は奥のシェルフに並んだスケッチブックを適当に一冊引き出した。ぱらぱらめくると何も描かれていない。スケッチブックを脇に抱えて父のデスクの上に置かれた鉛筆立てを持ち上げた。使い込まれたデッサン用の鉛筆はすべて几帳面にナイフで削られていた。
長らく父が愛用してきたイーゼルの上に航志朗はスケッチブックを置いた。イーゼルは乾ききった油絵具にまみれていた。ふとイーゼル自体が父の作品のようだと航志朗は思った。父が倒れる直前まで安寿をモデルにして描いていた油絵は見当たらなかった。おそらく伊藤がどこかに収納したのだろう。航志朗は鉛筆立てから短めの鉛筆を抜き取った。
そして、航志朗は安寿を見つめて、手に握りしめた鉛筆を真っ白な画用紙の上に走らせ始めた。
「絶対に俺は離婚しない。いいな、安寿」
航志朗は安寿の目を見つめた。ずっと安寿は無表情のままだ。何を考えているのかまったくわからない。
突然「では、私はこれで失礼いたします」と言って安寿は立ち上がった。今すぐにこの屋敷から出て行ってしまいそうな態度だ。
じりじりと追い詰められながら、航志朗は安寿をここに引き留める方法を必死になって考えた。だが、まったく何も出てこない。あせった航志朗の胸の鼓動が早まって、耳の奥まで拍動が大きく響く。
居ても立っても居られずに航志朗も立ち上がった。航志朗はサロンから出て行こうとした安寿の背中に向かって大声を出して言った。
「安寿、待ってくれ! 君にお願いがある」
立ち止まった安寿は振り返って航志朗を見た。やっと安寿と目を合わせられたというのに、他人行儀な冷たい視線だ。かすれた声でしぼり出すように航志朗は言った。
「離婚する前に、俺は、……君の絵を描きたい」
一瞬、安寿の瞳の奥が光った。安寿は航志朗を見すえて静かに答えた。
「わかりました。では、アトリエでお待ちください」
そう言うと安寿は音を立てずにサロンを出て行った。
一人になった航志朗は両足の力が抜けてソファにしゃがみ込んだ。思いがけず自分が口に出してしまった言葉に航志朗は深くうつむいて頭を抱えた。
(俺は、なんてことを言ってしまったんだ。この俺が、今の安寿を描けるわけがないだろう……)
空白の時間が刻一刻と過ぎていった。
その規則的な音に気づいて航志朗は顔を上げた。この屋敷が建てられた当初からサロンの壁に掛けられている古時計が時を刻む音だ。時計のレトロな文字盤を見ると、長針と短針が直角をつくって午後三時をさしている。意を決して航志朗は立ち上がると、アトリエに向かった。
母屋の通用口を出ると、航志朗は身体じゅうを震わせた。かなり気温が下がってきた。今にも雪が降ってきそうだ。
一度深呼吸をしてからアトリエのドアを開けた。意外にも中は温かい。石油ストーブの赤い炎が航志朗の目に入った。
窓辺を見て航志朗は息を呑んだ。真紅の肘掛け椅子に安寿が腰掛けて窓の外を眺めていた。安寿はあのワンピースを着ている。結婚したばかりの時に航志朗が贈った羽根のような刺繍がほどこされたネイビーのワンピースだ。初めてふたりが身体を重ねた時も安寿は直前まであのワンピースを身にまとっていた。
安寿は航志朗がアトリエにやって来たことに気づいて振り返った。やはり安寿は無表情のままだ。
(今、安寿が俺に微笑みかけてくれたら……)
あの愛おしくてたまらない笑顔を思わず想像すると航志朗は瞳の奥が刺すように痛くなった。
無言で航志朗は奥のシェルフに並んだスケッチブックを適当に一冊引き出した。ぱらぱらめくると何も描かれていない。スケッチブックを脇に抱えて父のデスクの上に置かれた鉛筆立てを持ち上げた。使い込まれたデッサン用の鉛筆はすべて几帳面にナイフで削られていた。
長らく父が愛用してきたイーゼルの上に航志朗はスケッチブックを置いた。イーゼルは乾ききった油絵具にまみれていた。ふとイーゼル自体が父の作品のようだと航志朗は思った。父が倒れる直前まで安寿をモデルにして描いていた油絵は見当たらなかった。おそらく伊藤がどこかに収納したのだろう。航志朗は鉛筆立てから短めの鉛筆を抜き取った。
そして、航志朗は安寿を見つめて、手に握りしめた鉛筆を真っ白な画用紙の上に走らせ始めた。