今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第9節
窓の外が暗くなってきた。だが、妙に白くも見える。辺りがしんと静まり返っていることに航志朗は気づいた。
(雪が降ってきたんだ……)
ずっと安寿は微動だにせずに真紅の肘掛け椅子に座っている。十六歳の時から六年間も岸のモデルをしてきたのだ。じっとしていることには慣れているはずだ。それにしても、目の前の安寿には生気がない。その身体に流れている温かいはずの血が凍りついてしまったかのようだ。
安寿を見つめて手を動かしながら、航志朗の脳裏にはこの六年間の安寿との思い出が次々に映し出された。どの瞬間も心が震えるこのうえなく愛おしい記憶だ。一生、絶対に忘れられない大切な時間を安寿と共に過ごしてきたはずだ。それは安寿にとっても同じだろう。いや、そうあってほしい。
航志朗の手から鉛筆が落ちてアトリエの床の上に転がった。落とした鉛筆を拾いもせずに、航志朗は安寿のもとに走り寄って行った。聖なるものに許しを請うような形相で、航志朗は肘掛け椅子に座った安寿の足元にひざまずいて言った。
「お願いだ、安寿。これからも、ずっと俺と一緒にいてくれ……」
安寿は航志朗を見下ろして淡々と言った。
「終わりましたか?」
航志朗は安寿が言った言葉の意味がわからなかった。困惑して安寿の黒い瞳を見つめた。
目を合わせずにまた安寿が言った。
「絵を描くのは、終わりましたか?」
胸をきつくしめつけられながら、航志朗はうめいた。
「もうこれ以上、君を、……俺は描けない」
安寿は肘掛け椅子から立ち上がると、窓の方を向いて航志朗に背を向けた。そして、静かに透き通った声で安寿は言った。
「私を一人にしてください。……岸さん」
その言葉は航志朗にとって安寿からの最後の通告のように聞こえた。ふらつきながら航志朗は立ち上がってドアに向かった。そして、振り返らずに乾ききった声で言った。
「安寿、俺たちは終わりなんだな……」
うなだれた航志朗はアトリエから音もなく出て行った。岸家の裏の森に雪が降っている。その光景が見える窓に、安寿の色のない顔が映っている。やがて、安寿の吐息で曇りはじめた窓ガラスは、安寿のふたすじの涙も映し出した。突然、床に伏せて安寿は大声で泣き出した。
息も絶え絶えになって安寿は叫んだ。
「航志朗さん! ……航志朗さん!」
雪が激しく降ってきた。長靴を履いた咲が岸家の勝手口の前で傘を振って雪を落とした。真っ暗な台所に入ってライトをつけると、咲は短い悲鳴をあげた。うつむいた伊藤が台所に置かれた踏み台に両肩を落として腰掛けていた。
「どうなさいましたか、秀爾さん!」
伊藤の目は泣きはらして真っ赤だ。即座に咲は頭に思い浮かべた。
(まさか、だんなさまが!)
口を開けて伊藤が何か言った。大声を出して、咲はまた伊藤に尋ねた。
「秀爾さん、何があったんですか!」
下を向いて顔に影を落とした伊藤がぼそっとこぼした。
「また、私は、安寿さまに過ちを犯した……」
「ええっ? いったいどういうことなんですか、秀爾さん!」
咲は顔をゆがめて伊藤を見つめた。
(雪が降ってきたんだ……)
ずっと安寿は微動だにせずに真紅の肘掛け椅子に座っている。十六歳の時から六年間も岸のモデルをしてきたのだ。じっとしていることには慣れているはずだ。それにしても、目の前の安寿には生気がない。その身体に流れている温かいはずの血が凍りついてしまったかのようだ。
安寿を見つめて手を動かしながら、航志朗の脳裏にはこの六年間の安寿との思い出が次々に映し出された。どの瞬間も心が震えるこのうえなく愛おしい記憶だ。一生、絶対に忘れられない大切な時間を安寿と共に過ごしてきたはずだ。それは安寿にとっても同じだろう。いや、そうあってほしい。
航志朗の手から鉛筆が落ちてアトリエの床の上に転がった。落とした鉛筆を拾いもせずに、航志朗は安寿のもとに走り寄って行った。聖なるものに許しを請うような形相で、航志朗は肘掛け椅子に座った安寿の足元にひざまずいて言った。
「お願いだ、安寿。これからも、ずっと俺と一緒にいてくれ……」
安寿は航志朗を見下ろして淡々と言った。
「終わりましたか?」
航志朗は安寿が言った言葉の意味がわからなかった。困惑して安寿の黒い瞳を見つめた。
目を合わせずにまた安寿が言った。
「絵を描くのは、終わりましたか?」
胸をきつくしめつけられながら、航志朗はうめいた。
「もうこれ以上、君を、……俺は描けない」
安寿は肘掛け椅子から立ち上がると、窓の方を向いて航志朗に背を向けた。そして、静かに透き通った声で安寿は言った。
「私を一人にしてください。……岸さん」
その言葉は航志朗にとって安寿からの最後の通告のように聞こえた。ふらつきながら航志朗は立ち上がってドアに向かった。そして、振り返らずに乾ききった声で言った。
「安寿、俺たちは終わりなんだな……」
うなだれた航志朗はアトリエから音もなく出て行った。岸家の裏の森に雪が降っている。その光景が見える窓に、安寿の色のない顔が映っている。やがて、安寿の吐息で曇りはじめた窓ガラスは、安寿のふたすじの涙も映し出した。突然、床に伏せて安寿は大声で泣き出した。
息も絶え絶えになって安寿は叫んだ。
「航志朗さん! ……航志朗さん!」
雪が激しく降ってきた。長靴を履いた咲が岸家の勝手口の前で傘を振って雪を落とした。真っ暗な台所に入ってライトをつけると、咲は短い悲鳴をあげた。うつむいた伊藤が台所に置かれた踏み台に両肩を落として腰掛けていた。
「どうなさいましたか、秀爾さん!」
伊藤の目は泣きはらして真っ赤だ。即座に咲は頭に思い浮かべた。
(まさか、だんなさまが!)
口を開けて伊藤が何か言った。大声を出して、咲はまた伊藤に尋ねた。
「秀爾さん、何があったんですか!」
下を向いて顔に影を落とした伊藤がぼそっとこぼした。
「また、私は、安寿さまに過ちを犯した……」
「ええっ? いったいどういうことなんですか、秀爾さん!」
咲は顔をゆがめて伊藤を見つめた。