今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 初恋のひとの新之助さんと結婚できて、私は本当に幸せだった。屋敷で開かれた結婚式に、私は父が昔パリで買い求めたというそれはそれは美しいレースの刺繍がほどこされたベールを被った。

 その半年後、私は妊娠した。そして、その報告を聞いた父はまもなく病を得て亡くなった。安らかな死に顔だった。今思えば、父は自分の死期を悟っていたのかもしれない。そういえば、妙に父は私たちの結婚式を急がせていた。私は最愛の父を亡くして限りない悲しみにひたったけれど、なんとか立ち直った。私にはすでに新しい家族がいたからだ。愛する夫とまもなく生まれてくる私たちの子どもが。今思えばあの時期が、私の人生で唯一の幸せなひとときだったのかもしれない。

 結婚が決まってから、私は裏の森に行かなくなった。森の存在すら忘れていた。新之助さんの腕の中で目を閉じると、私はすべてを忘れた。

 でも、私の幸せは幻だった。お腹の赤ちゃんが安定期に入って、私は久しぶりに銀座に出かけた。趣味の日本画の画材を買いに行くためだった。そこで私は三枝用品店の雪乃さんに会った。雪乃さんと九彩堂の千里さんは、私にとって友人と呼べる唯一の存在だった。

 私は雪乃さんにこう誘われた。「銀座(ここ)にベルギーからやって来たショコラトリーが開店したの。恵真さま、一緒に行ってみましょうよ」と。「ショコラトリー」という言葉を、その時、私は初めて知った。当時、まだ日本では知られていないチョコレートの専門店のことだった。

 その日、体調も気分もよかった私は雪乃さんと行ってみることにした。新之助さんの好物がチョコレートだったからだ。私たちは行列に並んで、私はホールの小さなチョコレートケーキを買い求めた。もちろん新之助さんに差し入れするために。会社に電話すると、新之助さんは執務室の方にいると聞いた。当時の新進気鋭の建築家がデザインしたマンションを結婚した当初に父が新之助さんに買い与えていた。執務室とはそのマンションのことだ。

 私はマンションに向かった。呼び鈴を鳴らさずに、私は合鍵を使ってマンションに入った。新之助さんを驚かせたかったからだ。マンションの玄関にはベージュのハイヒールと書類ケースが置かれてあった。秘書が来ているのだとすぐにわかった。

 彼女とは一度だけ結婚式で会ったことがある。大学を卒業した聡明で美しい女性だ。その時、私はちょうどよかったと愚かにも思った。ホールケーキだから切り分けて三人でいただけるだろうと。そして、執務室として使っている部屋のドアをノックもせずに開けると、私は凍りついた。私の目の前で、新之助さんと秘書が抱き合っていた。新之助さんはすぐに気づいて真っ青になった。下着姿の秘書は私に土下座して謝った。

< 439 / 471 >

この作品をシェア

pagetop