今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
(……今、俺はどこにいるんだ?)
目を閉じたまま、航志朗は自分に掛かった柔らかいものをたぐりよせてその匂いをかいだ。懐かしい匂いがした。温かくて居心地がよくて安心感が満ちてくる。ずっとこのままでいたいと心から思った。そして、また深く眠りに潜ろうとしたが、ふと気づいた。慣れ親しんだ朝の香りがする。航志朗は(お腹が空いたな……)と子どものように思った。
航志朗は目を開けた。見慣れない部屋にいることに気づき、目をしばたかせてあたりを見回した。
(ああ、安寿の家に泊まったんだった。それにしても、久しぶりによく眠ったな)
航志朗は起き上がり、大あくびをして身体を伸ばした。肩と背中がこっている。両腕も少し痛い。二晩連続で機中泊をしたようなものだ。それに昨日はずっとけがをした安寿を支えたり担いだりしていた。だが、安寿という存在に確かに触れていた証拠が自分の身体に残っていることに、航志朗は思わず嬉しくなってしまった。
(恋に落ちたら、筋肉痛まで心地よくなるってことか。本当に俺はどうかしているな)
理性も起きてきた航志朗は自嘲ぎみに思った。
そして、何げなくキッチンの方を見て、航志朗は顔を赤らめた。エプロンを着た安寿が朝食をつくっている。ご飯の炊けるいい香りや魚を焼く香ばしい香りがしてきた。安寿は手際よくキッチンを行ったり来たりしている。航志朗が起きたことに安寿はまったく気づいていない。航志朗は毛布を膝にかけたまま、しばらくその安寿の姿を呆然と眺めていた。
炊飯器のメロディー音が鳴った。ご飯が炊きあがったのだ。さっそく安寿はしゃもじを持って炊けたご飯をかき混ぜようと振り返ると、航志朗が起きて自分を見つめていることに気づき、飛び上がりたくなるほど驚いた。実際のところ、飛び上がることはできなかったが。安寿はしゃもじを持ったまま、航志朗のところに急いでやって来て、いきなり航志朗の額に手を当てた。航志朗は思わず胸をどきっとさせた。安寿は安堵して深いため息をついた。そこはひんやりとしていた。
「よかった。熱を出されていたら、どうしようかと思いました」
「熱?」
「だって、パジャマのままで何も掛けずに寝ていたから」
「ああ、そういうことか」
本当のところ「いや、俺は君にずっと熱を出しているよ」と航志朗は言いたかったが、安寿に引かれると思ってもちろん言わなかった。
「あの、岸さん。いちおう朝食の支度をしたんですが、ご飯でいいですか? パンも用意できますけれど」と安寿が訊いた。
安寿の新妻のような初々しさに顔がだらしなくゆるんできてしまうのをなんとかごまかしながら、航志朗が言った。
「ご飯がいいな」
「はい、わかりました。少々お待ちください。すぐに用意します」と言って立ち上がろうとする安寿の腕を航志朗はつかんだ。
「安寿、足は大丈夫なのか?」
「はい。大丈夫です」
「本当か?」
「ええと、ちょっとまだ……、いえ、大丈夫です」
明らかに困惑した表情で安寿は口ごもった。
航志朗は面倒くさそうに頭をかいてから、安寿によくよく言い聞かせるように話した。
「安寿、俺はいちおう君の夫なんだから、本当のことを言えよ。君が本当のことを言わないと、俺は君の本当の気持ちがわからないだろう?」
「はい。すいません」と返事をしつつも、安寿は(「夫」って言われても……)と困惑した。
「で、安寿、どうなんだ?」
航志朗は眉間にしわを寄せて顔を近づけてきた。
その押しの強い口調に気圧されて、正直に安寿は言ってしまった。
「まだ痛いです」
「わかった。君は座っていろ。今日は絶対に安静だ」
胸の内で安寿は叫んだ。
(このひとと今日も一緒にいるってこと? 安静になんかできるわけないじゃない!)
航志朗はパジャマの上に安寿の着ていたエプロンをつけて、安寿がつくった料理を皿に盛りつけた。また安寿は驚いた。航志朗はいとも簡単にそれらをとても美しく盛りつけたからだ。冷蔵庫の有り物総動員でつくった塩鮭の焼き魚とだし巻き卵、ほうれん草のお浸し、ミニトマト、大根とワカメの味噌汁とご飯は、いつものありふれた朝食メニューだというのに、まるで和風旅館の朝食のようだ。
(このひと、すごい……)
安寿は航志朗のさりげないセンスに感心した。
「安寿、ありがとう。おいしいよ」と言って、航志朗は三回もご飯をおかわりした。しかもこの家では見たことがないような美しい大盛りだった。安寿はもっとご飯を炊いておけばよかったと大いに後悔した。
安寿はご飯をもりもり食べる航志朗の姿を見て、大食漢の宇田川大翔を思い出した。目を細めて安寿はくすっと可愛らしく微笑んだ。
「ん? どうした、安寿」
さっそく安寿は航志朗に言われた通りに本当のことを口に出した。
「高校の友だちみたいだと思ったんです。ラグビー部の彼は、コンビニのおにぎりを五つも平らげちゃうんですよ」
そう言うと、安寿は屈託なく笑った。
(ラグビー部の、……「彼」だと?)
その単語にものすごく不愉快になった航志朗は、思わず不機嫌そうな表情を浮かべた。
(あれ? 何か失礼なことを言ったのかな。本当のことを言ったのに)
わけがわからずに安寿は首をかしげた。
うつむいてご飯をよく噛みながら、航志朗は心配になって本気で考えた。
(渡辺さんが言っていた通り、安寿は高校の男どもにちょっかいを出されているんじゃないのか。だって、こんなにも可愛いんだからな。どうにかして予防線を張れないものか。さもないと俺は心配でシンガポールに戻れない)
「ごちそうさま」と手を合わせた航志朗は昨日の夜から考えていたことを思い出して、即座に安寿に提案した。
「安寿。これから、君のお母さんとおじいさんとおばあさんのお墓参りに行かないか?」
「えっ?」
安寿は思いもよらない航志朗の提案に驚いた。そういえば、しばらく墓参りには行っていなかった。
(でも、どうして、このひとが白戸家のお墓参りに行くの?)
航志朗は爽やかな笑顔で言った。
「俺たちの結婚の報告をしに行こう」
(でも……)と安寿は思った。
(「結婚の報告」って、いずれ離婚するのに)
しかし、また航志朗の勢いのある口調に押されて、安寿は航志朗と墓参りに行くことになった。
目を閉じたまま、航志朗は自分に掛かった柔らかいものをたぐりよせてその匂いをかいだ。懐かしい匂いがした。温かくて居心地がよくて安心感が満ちてくる。ずっとこのままでいたいと心から思った。そして、また深く眠りに潜ろうとしたが、ふと気づいた。慣れ親しんだ朝の香りがする。航志朗は(お腹が空いたな……)と子どものように思った。
航志朗は目を開けた。見慣れない部屋にいることに気づき、目をしばたかせてあたりを見回した。
(ああ、安寿の家に泊まったんだった。それにしても、久しぶりによく眠ったな)
航志朗は起き上がり、大あくびをして身体を伸ばした。肩と背中がこっている。両腕も少し痛い。二晩連続で機中泊をしたようなものだ。それに昨日はずっとけがをした安寿を支えたり担いだりしていた。だが、安寿という存在に確かに触れていた証拠が自分の身体に残っていることに、航志朗は思わず嬉しくなってしまった。
(恋に落ちたら、筋肉痛まで心地よくなるってことか。本当に俺はどうかしているな)
理性も起きてきた航志朗は自嘲ぎみに思った。
そして、何げなくキッチンの方を見て、航志朗は顔を赤らめた。エプロンを着た安寿が朝食をつくっている。ご飯の炊けるいい香りや魚を焼く香ばしい香りがしてきた。安寿は手際よくキッチンを行ったり来たりしている。航志朗が起きたことに安寿はまったく気づいていない。航志朗は毛布を膝にかけたまま、しばらくその安寿の姿を呆然と眺めていた。
炊飯器のメロディー音が鳴った。ご飯が炊きあがったのだ。さっそく安寿はしゃもじを持って炊けたご飯をかき混ぜようと振り返ると、航志朗が起きて自分を見つめていることに気づき、飛び上がりたくなるほど驚いた。実際のところ、飛び上がることはできなかったが。安寿はしゃもじを持ったまま、航志朗のところに急いでやって来て、いきなり航志朗の額に手を当てた。航志朗は思わず胸をどきっとさせた。安寿は安堵して深いため息をついた。そこはひんやりとしていた。
「よかった。熱を出されていたら、どうしようかと思いました」
「熱?」
「だって、パジャマのままで何も掛けずに寝ていたから」
「ああ、そういうことか」
本当のところ「いや、俺は君にずっと熱を出しているよ」と航志朗は言いたかったが、安寿に引かれると思ってもちろん言わなかった。
「あの、岸さん。いちおう朝食の支度をしたんですが、ご飯でいいですか? パンも用意できますけれど」と安寿が訊いた。
安寿の新妻のような初々しさに顔がだらしなくゆるんできてしまうのをなんとかごまかしながら、航志朗が言った。
「ご飯がいいな」
「はい、わかりました。少々お待ちください。すぐに用意します」と言って立ち上がろうとする安寿の腕を航志朗はつかんだ。
「安寿、足は大丈夫なのか?」
「はい。大丈夫です」
「本当か?」
「ええと、ちょっとまだ……、いえ、大丈夫です」
明らかに困惑した表情で安寿は口ごもった。
航志朗は面倒くさそうに頭をかいてから、安寿によくよく言い聞かせるように話した。
「安寿、俺はいちおう君の夫なんだから、本当のことを言えよ。君が本当のことを言わないと、俺は君の本当の気持ちがわからないだろう?」
「はい。すいません」と返事をしつつも、安寿は(「夫」って言われても……)と困惑した。
「で、安寿、どうなんだ?」
航志朗は眉間にしわを寄せて顔を近づけてきた。
その押しの強い口調に気圧されて、正直に安寿は言ってしまった。
「まだ痛いです」
「わかった。君は座っていろ。今日は絶対に安静だ」
胸の内で安寿は叫んだ。
(このひとと今日も一緒にいるってこと? 安静になんかできるわけないじゃない!)
航志朗はパジャマの上に安寿の着ていたエプロンをつけて、安寿がつくった料理を皿に盛りつけた。また安寿は驚いた。航志朗はいとも簡単にそれらをとても美しく盛りつけたからだ。冷蔵庫の有り物総動員でつくった塩鮭の焼き魚とだし巻き卵、ほうれん草のお浸し、ミニトマト、大根とワカメの味噌汁とご飯は、いつものありふれた朝食メニューだというのに、まるで和風旅館の朝食のようだ。
(このひと、すごい……)
安寿は航志朗のさりげないセンスに感心した。
「安寿、ありがとう。おいしいよ」と言って、航志朗は三回もご飯をおかわりした。しかもこの家では見たことがないような美しい大盛りだった。安寿はもっとご飯を炊いておけばよかったと大いに後悔した。
安寿はご飯をもりもり食べる航志朗の姿を見て、大食漢の宇田川大翔を思い出した。目を細めて安寿はくすっと可愛らしく微笑んだ。
「ん? どうした、安寿」
さっそく安寿は航志朗に言われた通りに本当のことを口に出した。
「高校の友だちみたいだと思ったんです。ラグビー部の彼は、コンビニのおにぎりを五つも平らげちゃうんですよ」
そう言うと、安寿は屈託なく笑った。
(ラグビー部の、……「彼」だと?)
その単語にものすごく不愉快になった航志朗は、思わず不機嫌そうな表情を浮かべた。
(あれ? 何か失礼なことを言ったのかな。本当のことを言ったのに)
わけがわからずに安寿は首をかしげた。
うつむいてご飯をよく噛みながら、航志朗は心配になって本気で考えた。
(渡辺さんが言っていた通り、安寿は高校の男どもにちょっかいを出されているんじゃないのか。だって、こんなにも可愛いんだからな。どうにかして予防線を張れないものか。さもないと俺は心配でシンガポールに戻れない)
「ごちそうさま」と手を合わせた航志朗は昨日の夜から考えていたことを思い出して、即座に安寿に提案した。
「安寿。これから、君のお母さんとおじいさんとおばあさんのお墓参りに行かないか?」
「えっ?」
安寿は思いもよらない航志朗の提案に驚いた。そういえば、しばらく墓参りには行っていなかった。
(でも、どうして、このひとが白戸家のお墓参りに行くの?)
航志朗は爽やかな笑顔で言った。
「俺たちの結婚の報告をしに行こう」
(でも……)と安寿は思った。
(「結婚の報告」って、いずれ離婚するのに)
しかし、また航志朗の勢いのある口調に押されて、安寿は航志朗と墓参りに行くことになった。