今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 何も言わずに私はマンションを出てタクシーで屋敷に帰った。まっすぐに寝室へ入ると、私は大声を出して泣いた。

 その夜、新之助さんは帰って来なかった。一晩中、ずっと私はベッドに腰掛けて彼の帰りを待っていたのに。

 次の日、私は、父が亡くなった後も岸家の執事をしていただいている伊藤さんに「今夜から新之助さんと寝室を別にします」と言った。

 当時、伊藤さんには十歳になられたご長男がいた。ご長男が生まれたばかりの時、伊藤さんの優しい奥さまは、十代だった私に「赤ちゃんを抱っこする練習をしませんか」と言って、愛くるしい秀爾ちゃんを抱かせてくれた。その時、私は初めて赤ちゃんを抱っこした。私は胸がしめつけられた。赤ちゃんはとても温かくて、なんともいえないいい匂いがした。いつか自分が母親になる時の想像までした。でも「そんな未来は絶対にやって来ない。こんな私を妻にしてくれる男性は世界じゅうのどこを探しても絶対にいない」と思った。

 多忙な新之助さんに代わって伊藤さんは妊娠中の私を本当によく気遣ってくださった。彼はもう亡くなられてしまったけれど、子どもの頃からお世話になったご恩には、今でもどんなに感謝してもし足りない。

 伊藤さんは何か言いたげだったが、私の言う通りにしてくれた。

 その日の夕方から雪が降り出した。きっと今夜も帰って来ないのだろうと、私は少しふくらんできたお腹をさすりながら思った。

 でも、その日の夜遅くに新之助さんが帰って来た。別にした寝室にやって来て、新之助さんは私に頭を下げて謝罪した。そして「彼女とはきっぱり別れた。それに会社も今日付けで辞めてもらった」と言った。

 私たちが結婚するずっと前から、ふたりは親密な関係だった。でも、私との縁談が持ちあがって、新之助さんは私と結婚した。

 私は新之助さんに言い放った。「岸家の財産や父が起こした会社や事業が欲しいのなら、全部あなたにあげる。もちろん、このお腹の子どももあなたにあげるわ。私には、この屋敷と裏の森だけあればいい」と。

 そして、私は新之助さんに冷たく言った。

 「私を一人にしてください、……斎藤さん」

 うなだれて新之助さんは寝室を出て行った。

 結局、私たちは離婚しなかった。妊娠した時、心臓に持病がある私に医者は言った。「最悪の覚悟はしていてください」と。もし出産で命を落としたとしても、私はそれでもいいと思った。もうすべてがどうでもよかった。でも、それが功を奏したのかもしれない。私は無事に赤ちゃんを産んだ。生まれた赤ちゃんは、新之助さんによく似ていた。

 母になった私は自分の子どもをどうしても愛せなかった。私のなかの愛情の泉は乾ききっていた。愛されるべきひとから愛情をもらって自分が満たされていなければ、他の誰かに愛情なんて注げない。それが我が子だとしてもだ。それから、新之助さんと私は表面上だけの夫婦になった。

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