今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 航志朗は祖母の優しい微笑みを頭のなかに思い浮かべていた。その微笑みにはいつも深い影がある哀しみが漂っていたことも。
 
 最後に祖母がつづった言葉に、航志朗は突き動かされた。すぐに結婚指輪を左手の薬指にはめて外に出て、再び航志朗は大雪が降る中を駆け出して行った。

 最後に、私の本当の想いを記しておこう。本当は、ずっと私は新之助さんを愛していた。彼に裏切られていたとしても。私は、あの雪の夜、本当は新之助さんにこう言いたかった。「もう二度と私を一人にしないで」と。でも、私は自分の本当の想いにうそをついた。「私を一人にしてください」と冷たく彼に言って。あの時、私が彼に本当の想いを伝えていたら、今頃どうなっていたのだろう。でも、もう遅い。そう、私は知っている。もうすぐ私の命が尽きることを。
 
 唯一、この世に私が思い残すのは、孫の航志朗のことだ。彼もまた愛されるべきひとから愛情をもらわずに成長している。私と同じように。でも、その原因は私がつくってしまったのだ。愚かな私は何ものかに祈るしかない。せめて航志朗だけは、本当の愛をその胸に抱けるようにと。

 真っ白な雪が降る中を、息を切らせて走りながら航志朗は胸の内で叫んだ。

 (安寿! 俺はもう二度と君を一人にはしない! 今すぐに君のところに行くから、待っていてくれ!)

 岸のアトリエは静まり返っていた。石油が切れてストーブはとっくに冷たくなっている。うつ伏せになった安寿はゆっくりと立ち上がった。岸のイーゼルの前に立って航志朗が描いていた絵を見た。顔だけが描かれていなかった。真っ黒な瞳をして安寿はつぶやいた。

 「私、この屋敷を出て行かなくちゃ……」

 安寿の顔に長い黒髪がかかっている。安寿は長く伸びた髪を手で梳いた。

 「もう、この髪は必要なくなったんだ……」と小声でつぶやくと、安寿は岸のデスクの上に置いてあったはさみを手に取って髪を短く切りはじめた。安寿の足元に切った黒髪がばさばさと落ちた。ワンピースの肩に残った髪を手ではらうと、安寿は裏の森に面した窓を開けた。外は雪が降っている。刺すように冷たい空気が頬に触れるが、寒いとは感じない。そして、そのまま安寿はアトリエから雪の降る外へ出て行った。 

 大雪が降っている白い森の小道を安寿は奥に向かって歩いた。安寿は足に何も履いていない。黒いタイツに覆われた足は、積もった雪に埋もれてもう感覚がなくなっている。

 安寿は両方の手のひらを空に向かってかかげた。天からの白い贈り物を受け取る。冷えきった手に舞い降りた雪はもう溶けない。

 きっと空から降って来る白い雪は、私が二十一年間いた哀しみに満ちたこの世界から、私の痕跡をすっかり消し去ってくれるだろう。

 池のほとりに安寿がたどり着くと、雪が小降りになってきた。雪雲のすき間から青白く冴えた月が見えた。灰色の池の水面は微動だにしない。凍りついているからだろう。安寿は辺りを見回した。真っ白な雪に覆われたこの森を心の底からこのうえなく美しいと思う。

 (でも、もう私は森の絵を描くことはない)

 安寿はしゃがんで池の水面に自分の姿を映した。髪が短くなった自分の顔が映ったが、航志朗が描いた絵のように表情は虚ろだった。安寿は顔のない自分に語りかけた。

 「私、本当に今までずっとがんばってきたよね。もういいよね。私、疲れちゃった」
 
 安寿は凍った池に足を踏み入れた。池の水は完全には凍っていない。細かく砕けたガラスの破片のようにしゃりしゃりと足にまとわりついた。安寿は足を進めた。だんだん池は深くなってくる。身体じゅうの感覚がなくなってきた。もう寒くも痛くもない。ふと誰かが自分の名前を呼んだような気がした。でも、それは気のせいだ。私の名前を呼んでくれるひとはいない。私は一人きりになったのだから。

 安寿の姿は、灰色の池の奥に消えていった。

< 441 / 471 >

この作品をシェア

pagetop