今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 肩を激しく上下させて顔を真っ赤にした航志朗が岸家に戻って来た。雪にまみれた全身に構わずにその表情に緊迫感をたたえながら、全速力で階段を駆け上がって安寿の部屋に向かった。「安寿!」と大声で呼ぶと、航志朗は勢いよくドアを開けた。鍵はかかっていなかった。

 「……安寿?」

 部屋の中は真っ暗だ。航志朗は異様な違和感を覚えた。どうも不可解な感じがする。言い知れない恐怖が航志朗を襲った。胸の鼓動を早めながら一階に下りてサロンに入った。ここにも安寿はいない。

 航志朗は食事室から台所に向かった。目を赤くした咲がガスコンロの前に立って鍋をレードルでかき混ぜながら、航志朗の姿を見ずに言った。

 「あら、航志朗坊っちゃん、お腹が空いたんじゃありませんか。もうとっくに九時を過ぎましたよ。安寿さまもまだお夕食にお見えになられていないんですよ」

 「……なんだって!」

 表情をこわばらせてすぐに航志朗は台所を出て行った。振り返ってその後ろ姿を見た咲の目に涙がにじみ出てきて、咲は白い割烹着の袖でぬぐった。

 航志朗は母屋を出て離れに向かった。通路の両脇には真新しい雪が降り積もっていた。荒々しく離れの引き戸を開けて中に入った。中は真っ暗だ。大きな音を立てて航志朗はアトリエのドアを開け放って叫んだ。

 「安寿!」

 アトリエの中も真っ暗だった。そして、外にいるようにものすごく寒い。あわてて航志朗はアトリエのライトをつけた。

 再び航志朗は大声を出して叫んだ。

 「安寿、どこにいるんだ!」

 森に面した窓が開いていた。そこから凍えるように寒い風が吹き込んでくる。窓を閉めようと航志朗は窓辺に行った。その時、何か黒いものが航志朗の足元に触れた。

 「ん? なんだこれ……」

 それを手に取った航志朗は一瞬にして身体じゅうを硬直させた。突然の恐怖に頭を乗っ取られて言葉が出てこない。息を荒くして航志朗は父のデスクを見た。デスクの足元にたくさんの黒い髪の毛が落ちていた。身震いしながら航志朗はデスクに近づいて黒い髪の毛を手に取った。

 「これ、……安寿の髪か?」

 航志朗はデスクの上を見た。開いたままのはさみが置かれていた。はさみの刃の間に髪の毛がはさまっている。呼吸が苦しくなりながら、航志朗は叫んだ。

 「安寿、どこにいるんだ!」

 その時、何かの鳴き声が航志朗の耳に入った。間をおいてまた聞こえた。猫の鳴き声だ。航志朗が開け放ってある窓から外を見ると、ウッドデッキの上に白い猫がいた。猫は航志朗を見つめてまた鳴いた。航志朗は思い出した。おととしの夏に安寿と熊本の古い教会を訪れた時に安寿が話していたことを。

 「この猫、……ニケか?」

 白い猫は航志朗に背を向けると、裏の森の入口の方へ歩いて行った。何回も振り返って航志朗を見ている。

 (もしかして、安寿は森のなかに行ったのか?)

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