今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 すでに雪は降りやんでいた。辺りは物音ひとつなく静まり返っている。ウッドデッキに置いてあったサンダルを履いて航志朗は走り出した。森の入口に横たわっている柵を乗り越えて森の小道に入る。白い猫の姿は見当たらなかった。森の小道に降り積もった雪の上に黒い髪の毛が点々と落ちている。震えおののきながら航志朗は白い息を吐き出してひたすら走った。

 池のほとりにたどり着くと、航志朗は周りを見回した。安寿の姿は見当たらない。たまらずに航志朗は大声を振りしぼって叫んだ。

 「安寿! ……安寿!」 

 池の前に落ちている安寿の黒い髪の毛が航志朗の目に入った。がく然として航志朗はつぶやいた。

 「うそだろ、安寿は池の中に入ったのか」

 どう見ても池の表面は凍りついている。航志朗の視界が見る見る曇った。

 「こんなにも冷たい水の中に入ったら、……死ぬぞ!」

 サンダルを脱ぎ捨てて、航志朗は池に入った。生まれて初めて航志朗は池の水に触れた。生前の祖母に「絶対に池の水には触ってはいけない」ときつく言いつけられていたことは、すっかり頭のなかから吹き飛んでいた。

 池の水は完全には凍っていないが、しびれて痛くなるほど冷たい。池の水に身体を腰まで浸けて航志朗は手のひらで目をこすってから水面に目を凝らした。月の光に冷たく照らされた水面は微動だにしない。

 「安寿、安寿! どこにいるんだ!」

 その時、安寿は真っ暗な池の底に沈んで仰向けになっていた。はるかかなたに張ったガラスのような氷の向こうに白く光る月が見える。
 
 安寿は不思議に思った。息が苦しくないし、寒くもない。安寿は腕を持ち上げて手のひらを池の水に漂わせた。すると、手のひらの上に渦を巻いた水の流れのなかに何かの光景が見えた。遠い昔から今に至るまで、池のほとりにやって来たたくさんの見知らぬ人びとがそこに映し出されては消えていった。

 そのなかに、一人で池を見つめている小さな男の子を見つけた。両方のこぶしを固く握りしめて、男の子は琥珀色をした目にいっぱい涙をためていた。安寿はその男の子を抱きしめたいと心から切に思った。男の子が映った水のかたまりを安寿は胸にしっかりと抱きしめた。だが、すぐにそれはあとかたもなく消えていった。

 また別の水のかたまりのなかに、見覚えのある女と男の姿が浮かんできた。ふたりは互いを愛おしそうに見つめて、やがて唇を重ねてきつく抱き合った。その光景を安寿は懐かしそうに目を細めて見つめた。もう過ぎ去ったはかない思い出だ。

 ぼんやりとした頭のなかで安寿は思った。

 (たぶん、これは、水が見た記憶なんだ。このままずっと見ていたら、知りたかったことがわかるかもしれない……)

 また別の女と男の姿が見えた。ふたりは手をつないで穏やかに微笑み合いながら、満開の桜の木を見ていた。そこには、情欲の微塵もなかった。ふと安寿の脳裏に「尊敬」という言葉が浮かんだ。女は男の肩についた桜の花びらをそっと指でつまんで、手のひらにのせて息を吹きかけた。

 安寿の目の前にひとひらの桜の花びらが舞い落ちてきた。思わず安寿は起き上がってその花びらを手のうちに収めた。握った手のひらを開くと、そこには何もない。やはり幻だ。

 そこへまた別の女が映った。女は両足を池の水につけてたゆたうように動かしていた。その女は頬を赤らめながら微笑んで何かのメロディーを口ずさんでいた。それは安寿も聴いたことがあるショパンのノクターンだ。曲が終わってそっと唇を閉じた女はその口元に寂しげな微笑みを浮かべると、胸を押さえて池のほとりに倒れた。

 すぐに安寿は立ち上がってその女のそばに行こうとしたが、その光景は安寿の目の前から遠い空のかなたへとゆっくり離れていきながら小さくなっていき、やがて消えていった。

 悲鳴をあげるように安寿は叫んだ。

 「私、早くあそこに行かなくちゃ! 早くしないと、……恵真さまが!」

 思いきり両手を恵真に向かって伸ばすと、安寿の足が池の底から離れて身体が水に浮いた。すると、急激な水の流れが起こって、それは安寿をどこかへ押し流していった。抵抗する力はもはや安寿にはない。ただ水の流れに身を任せて、安寿は固く目を閉じた。

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