今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 気づいたら辺りは真っ暗になっていた。急に安寿は恐ろしくなった。真闇のなかで一人きりで立っている。たぶん、このまま永遠に。泣き出しそうになりながら安寿は思った。

 (私、死んじゃったのかもしれない……)

 安寿は自分自身を抱きしめて池の底に小さくなってしゃがみこんだ。身体の震えが止まらない。自分こそが間違ったことをしてしまったのだと心の底から後悔した。

 (でも、もう遅い。私の命は尽きてしまったんだ)

 灰色の池の水は安寿を覆うように包んでいる。まったくの無の世界だ。

 (航志朗さん、私、今、あなたに会いたい)

 その時、安寿は後ろからやんわりと声をかけられた。

 「……アンジュ、そろそろ戻ったら。彼が迎えに来ているよ。ものすごく彼は君のことを心配している。早く君は彼のところに帰ったほうがいい」

 知らない男の声だった。日本語ではない。でも、なぜか安寿は理解できた。安寿はふり返った。微かに背の高い男の気配がする。本当に知らない男だ。だが、どこかで会ったような懐かしい親密な感じがした。限りない哀しみで胸をあふれさせながら、安寿は小さな女の子のような声で男に訴えた。

 「私は真っ暗な池の底にいる。ここはきっとあの世でしょ。冷たい水のなかで私は死んじゃったんだ。もう遅い。私は彼のところに行けない」

 男が苦笑を浮かべた音がした。その男が口から吹き出した空気の泡が安寿の頭の上を浮かんでいった。思わず安寿は仏頂面をした。

 「失礼。アンジュ、君は死んではいないよ。まだ、君の寿命は来ていないから」

 「……本当に?」

 安寿は見えない男が笑ってうなずいたような気がした。

 「ねえ、アンジュ。ずっと君は彼に伝えたいことがあった。……自分の本当の想いを」

 素直に安寿はうなずいた。

 「じゃあ、今、彼に伝えよう。君の寿命が尽きる前に。人の命は限りがあることを知って、心から自分を許せばそれができる」

 悲痛な声をあげて安寿は叫んだ。

 「でも、どうやって彼のところに戻ったらいいのかわからないの! だって、私には翼がないんだもの!」

 「今、翼なんてまったく必要ないだろ。ここは水のなかだ。アンジュ、君は泳げる。君のおじいちゃんとおばあちゃんが、子どもの君に泳ぎを習わせた。こういう時のために」

 男のその言葉に、安寿は両手と両足で水をかいた。ふわっと安寿の身体が浮いた。

 見えない男は微笑んだようだった。男は浮き出した安寿の腰を抱いてその下腹に顔をそっとなでるように触れると、勢いよく安寿を上へ押し上げた。

 見えない男の姿が離れていく。あわてて安寿は叫んだ。

 「あなたは誰なの!」

 心から愉しそうに男は言った。

 「いずれわかるよ。その時が来たら。さあ、アンジュ、泳ぐんだ!」

 まっすぐに安寿は上を向いた。身体全体を使って水をかいて泳ぐ。浮かび上がりながら周りを見ると、もう会えないひとたちが水に映って、安寿を優しいまなざしで見送っていた。

 そのなかに愛がいた。愛は生まれたばかりの赤ちゃんをその胸に抱いていた。愛の両脇には微笑んだ祖父母が立っていて、愛の肩に手を置いていた。愛おしそうに愛は赤ちゃんの右頬に頬ずりした。

 左手で水をかきながら、安寿は右手を右頬に置いた。記憶の奥底に大切にしまっておいた母の存在を身体じゅうで感じる。

 (私のママ……。ママ、ありがとう。私、ママのことを許すよ)

 安寿の目からあふれ出た涙が池の水に軌跡を描いてきらめきながら溶けていった。

 最後に目を閉じて横になった岸の姿が見えた。安寿は手を伸ばして岸の手をしっかりと握った。岸の手だけは確かな手ごたえがあった。岸の手の懐かしい温もりを感じたのだ。そして、また思いきり水をかいて、凄まじい勢いで安寿は泳いで上昇して行った。
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