今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その時、咲は本気で転職を考えていた。同じ職場の同僚と恋をして、二十代最後の年に結婚の約束をした。だが、相手の両親に猛反対されて、恋人は咲から離れていった。恋人と別れた後も、毎日、彼と職場で顔を合わせていた。咲はなかなか彼に対する気持ちを捨て去れなった。気まずい心情を咲はずっと持て余し続けていた。その男は、咲の初恋のひとだった。そんな時、彼に若い彼女ができたらしいと同僚から聞いて、ますます今の職場に居づらくなっていた。
 
 夫人は、岸恵真と名乗った。恵真は咲の事情を聞いて、岸家で働きながら音楽大学に再入学する費用を出すとまで言ってくれた。咲は養護施設で働きながら、いつか大学に戻りたいと心のどこかで思っていた。恵真の厚意は本当にありがたかった。だが、結局、咲は音楽大学に戻らなかった。赤ちゃんだった航志朗が可愛くて仕方がなかったからだ。

 岸家で住み込みの家政婦兼ベビーシッターとして働くことになった咲には、不可解なことがたくさんあった。航志朗の母である岸家の嫁の姿をほとんど屋敷で見かけない。他の家政婦に「若奥さまの食事の用意は不要だ」とも言われていた。幼い子どもを置いて、航志朗の母は自身の仕事の関係でよく海外に行っているようだった。画家をしているらしい若い父親もアトリエにこもりきりで、まったく子どもの相手をしていない。可愛いさかりだというのに。一度、咲は岸家の執事に就任したばかりの伊藤秀爾に尋ねたことがあった。「なぜ、若だんなさまと若奥さまは、航志朗坊っちゃんを抱っこされないのですか」と。厳しい表情を浮かべた伊藤は咲に「岸家のことに関して、君はなんの疑問も持ってはならない」ときつく言い渡した。

 いつも恵真は咲を優しく気遣ってくれた。たびたび他の家政婦たちには内密で恵真の部屋に呼ばれて、クラシック音楽のレコードを聴きながらお茶の時間を共にした。もちろん幼い航志朗も一緒だった。恵真が航志朗に注ぐ慈愛に満ちたまなざしを見て、ずっと咲は恵真のことを天使のような方だと思い、心から恵真を慕っていた。

 岸家にやって来てから八年後に、恵真が突然この世を去った。恵真の亡きがらから遠く離れた場所で涙を流しながら、咲は心から恵真に誓った。

 (大奥さま、今まで本当にありがとうございました。大奥さまは、孤独な私を救ってくださいました。航志朗坊っちゃんが大人になられるまで、私が全身全霊でお守りいたします。どうか安らかにお眠りくださいませ)
 
 当初から咲は伊藤のことをよく思っていなかった。正直に言って、冷酷で恐ろしい人だと思っていた。だが、ある時期から伊藤の態度が柔らかくなっていった。内心で咲は伊藤が誰かに恋をしているのかもしれないと思った。そして、ある年の大雪が降った翌日の真っ昼間に、岸家の執務室で泣いている伊藤の姿を見つけた。思わず咲は伊藤を後ろから抱きしめた。これまで伊藤に対して恋愛感情はまったく持っていなかった。それは、泣いている子どもを放っておけない咲の気性からの行動だった。その時、伊藤は「私は大きな罪を犯してしまった」と言って、むせび泣いていた。何の罪を犯したのか、咲は伊藤に尋ねなかった。岸家のことに関して疑問を持ってはいけないからだ。

 その直後に長期入院していた岸新之助が逝去した。すぐに新之助が多額の負債を抱えていたことが明るみになって、岸家は傾き始めた。当時、岸家で働いていた使用人たちは相次いで屋敷を去って行った。最後に咲と伊藤だけが残った。時を待たずしてふたりは親密な関係になった。新之助の一周忌を待って、咲と伊藤は結婚した。共に四十代の結婚だった。

 咲はサロンで伊藤が何かの作業をしていることに気づいた。咲はサロンの中を見に行った。岸家の地下室からほこりをかぶった大量の薪を運んで来て、伊藤が軍手をした手と鼻先を真っ黒にして暖炉の火を起こしていた。伊藤は乾いた雑巾で一本一本薪を拭いて暖炉にくべている。咲は表情をゆるめた。この暖炉の火を見るのは、いったい何十年ぶりだろう。かかんで咲は割烹着の裾で伊藤の鼻を拭いた。うつむいたままの伊藤がぼそっと言った。

 「冷え込んできたから、安寿さまと航志朗坊っちゃんに温まってもらおうと思ったんだ」

 何も答えずに目を潤ませた咲は伊藤をきつく抱きしめた。伊藤も手を回して咲を抱きしめた。

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