今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 雲の切れ目から刺すように注ぐ銀色の月明かりが、静まり返った池の水面を照らしている。白い雪に厚く覆われた森の樹々は沈黙したままで必死に安寿を探す航志朗を見下ろしている。氷結しかかった池の水に胸まで浸かって、航志朗は声をふりしぼって何度も叫んだ。

 「安寿! 安寿、どこにいるんだ!」

 身体が凍りついてきて思うように動かせなくなってきた。水面に張った氷をかき分ける腕の力がみるみる失われていく。視界がかすんで、すでに気が遠くなりかけている。だが、もう戻るつもりはない。

 (俺も安寿と一緒に逝く。安寿がいないこの世界で生きていくなんて、俺にはできない)

 その時、何かが浮き上がった音がした。振り返って航志朗はその音の方向を見た。遠く離れたところに安寿の頭らしきものがわずかに見えた。

 「安寿!」

 航志朗は力の限りを尽くして安寿のところに泳いで行った。

 氷のかけらが混じった水面から顔を出して安寿は夜空を見上げた。鈍色の雲間に白い月が見えた。

 (私、ここに戻って来たんだ……)

 水面に目を戻すと航志朗が泳いでやって来るのが目に入った。安寿も航志朗に向かって氷のかたまりをかき分けて泳いで行った。ふたりは身体を重ねて浮いたままで抱き合った。すぐに航志朗が大声で怒鳴った。

 「安寿、早く岸に戻るんだ!」

 ふたりは並んで泳ぎ出した。やがて、池の底に足がついた。だが、安寿は立ち上がれない。航志朗は安寿を胸に抱き上げて言った。

 「安寿! 大丈夫か!」

 航志朗の腕の中で安寿は弱々しく微笑んで、ささやくように呼びかけた。

 「こ、……こう、しろうさん」

 そう言うと、安寿は航志朗に身をあずけて目を閉じた。

 「うそだろ、安寿。頼むから目を開けてくれよ! 安寿、頼むから……」

 航志朗の両目から大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちて、真っ白な安寿の頬にしたたった。子どもの頃にこの池のほとりで命を落とした祖母の死に顔を航志朗は思い出した。祖母は何かから解放されたような安堵した表情を浮かべて目を閉じていた。人の死に直面したのはその時が初めてだった。幼い航志朗には祖母が死んでしまったとは、とうてい思えなかった。今にも目を開けて、いつものように優しく頭をなでてくれそうだった。

 今、航志朗の腕の中にいる安寿も記憶のなかの祖母と同じ顔をして目を閉じている。安寿の身体は冷えきっているどころか凍りついて硬直している。絵に描かれた安寿を抱いているかのようだ。今、目の前で安寿の命のともしびがだんだん消えていくのを、ここでただなすすべもなく見守っていることしかできない。航志朗は涙に濡れた温かい顔を安寿の凍えた白い顔に押しつけてうめいた。

 「安寿、すまなかった。本当に俺が悪かった。君をひどく傷つけて、こんなになるまで追い込んでしまって。いったい俺はどうしたらいいんだ……」

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