今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その瞬間、航志朗は後ろから祖母が冷たく濡れた頭を優しくなでてくれたような気がした。かつて祖母が好んで身にまとっていたバーベナの清涼な香りを微かに感じた。

 すぐに航志朗は顔を上げて意を決した。

 (俺が絶対に安寿を死なせない!)

 砕けて粉々になった気力と失いかけた体力を必死で再生して、航志朗は安寿の身体を抱き上げて岸に運ぼうとした。

 その時だった。池の底から低い轟音とともに地響きがしてきた。池の中心から何かが急激にわきあがってきて、池の水面に大きな水紋を描きはじめた。

 「……なんだ?」

 身構えた航志朗は安寿をかばうようにきつく抱きしめた。突然、池の中心が盛り上がった。航志朗は大きく目を見張った。大波がやって来て、安寿と航志朗の身体を呑み込んだ。

 呆然として航志朗はつぶやいた。

 「温かい……」

 突然、池の底から温泉が湧いてきたのだ。

 雪が降り積もった森が見えないくらいに、周りが真っ白な湯気で覆われた。あっというまの出来事だった。航志朗は目を閉じたままの安寿を膝の上に抱きながら、ダウンジャケットを脱いで熱湯になった池の水に浸かった。航志朗は安寿の手首を握って脈をとった。間違いなく規則的な力強いリズムを刻んでいる。肩を落として深いため息をついた航志朗は、手のひらで湯をすくって安寿の短くなった髪にかけた。だんだん身体が芯から温まってくる。目を閉じた安寿の頬にも赤みがさしてきた。航志朗は浮いているダウンジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出した。幸いにも電源が入った。航志朗は画面をタップして伊藤に電話した。

 ワンコールで通話に出た伊藤は早口で叫んだ。

 『航志朗坊っちゃん! どこにいるんですか!』

 落ち着いた声で航志朗は言った。

 「今、安寿と裏の森の池にいます。伊藤さんに三つのお願いがあります。これから申しあげます。よろしいですか。お手数ですが、ここまでバスタオルを持って来ていただけませんか。それから部屋を暖めて、医師を呼んでください」

 『わ、わかりました! すぐに航志朗坊っちゃんのおっしゃる通りにします!』

 通話を終えると、急いで伊藤は咲を大声で呼んだ。

 「咲! 早く来てくれ、咲! 早く!」

 航志朗は腕の中の安寿をそっと抱きしめた。たまらずに安寿の額に愛おしそうに口づける。そこは確かに温かかった。

 (今、ここで、生きている。安寿も俺も)

 航志朗は目を閉じたままの安寿に向かって静かに語りかけた。

 「さあ、安寿、一緒に家に帰ろう。もうすぐ伊藤さんが俺たちを迎えに来てくれるよ」

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