今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 「航志朗坊っちゃん!」

 池のほとりに伊藤が大量のバスタオルを抱えてやって来た。様変わりした池を見て、伊藤は縮みあがった。そして、航志朗が抱き上げた安寿の姿を見ると、伊藤は号泣しはじめた。航志朗は伊藤が泣くのを初めて見た。

 航志朗は安寿の身体をワンピースの上から拭いてバスタオルでくるんだ。再び航志朗は安寿を抱き上げると、靴を履いて森の小道を歩き出した。航志朗の靴もエントランスで気づいた伊藤が持って来てくれた。懐中電灯で小道を照らしながら、伊藤は航志朗の濡れたダウンジャケットとスマートフォンをたずさえて後からついて行った。

 森の中は静寂に包まれていて、航志朗と伊藤が雪に覆われた小道を先へ急ぐ音だけが現実味を持って響く。その時、航志朗は吐いた白い息の向こうに温かく、そして、懐かしい存在を感じた。

 (この森に眠るアンが、安寿と俺を導いてくれている……)

 目に見えない四つの小さな足跡がついた雪を注意深く踏みしめながら一歩一歩進む。航志朗は目を閉じた安寿の顔に頬ずりした。腕に抱いた安寿の身体は温かい。航志朗の胸に生きとし生けるものへの感謝の気持ちがあふれてくる。航志朗はこぼれ落ちてくる熱い涙を安寿の短くなった髪でぬぐった。

 (安寿、大丈夫だよ。みんなが俺たちを見守ってくれているから)

 岸家のエントランスでは手を擦り合わせた咲が白い息を吐いて震えながら待っていた。咲は航志朗が抱き上げた安寿の姿をひと目見るなり、すぐに屋敷の中に駆け込んで行った。

 伊藤に言われて航志朗は安寿をサロンに運んだ。サロンの中はとても暖かい。航志朗は暖炉で薪が真っ赤な炎を上げて燃えていることに気づいた。息を弾ませて咲が安寿の着替えを持ってサロンに飛び込んできた。ソファの上で航志朗と咲は安寿の濡れたワンピースとインナーを脱がしてタオルでよく安寿の身体を拭いてから、安寿にフランネルのパジャマを着せた。すぐに航志朗は安寿を毛布でくるんで暖炉の前に運ぼうとした。

 あわてて咲が航志朗の肩に手を置いて言った。

 「航志朗坊っちゃんも着替えてきてください」

 「いや、俺は安寿のそばを離れられない」

 突然、顔を真っ赤にして咲は大声で怒鳴った。

 「何を言ってるの、航志朗さん! 王子さまがびしょ濡れじゃ、お姫さまを救うことはできませんよ! 咲がついていますから、着替えてください!」

 声を荒げた咲を見るのは初めてだった。咲のものすごい剣幕に航志朗は圧倒された。

 「わ、わかりました、咲さん。安寿をよろしくお願いします……」

 客間に行って航志朗は急いで着替えた。大きく航志朗は身震いした。寒いのではない。身体の奥から力がみなぎってくるのを感じたのだ。

 サロンに戻って来ると、ソファの上に横になった安寿の短い髪をドライヤーで乾かしながら咲が涙ぐんでいるのが見えた。航志朗が咲の隣に座ると、咲は航志朗の髪の毛も乾かしはじめた。

 「航志朗坊っちゃんがお小さい頃、よくこうしてお風呂上がりに髪の毛を乾かしてあげましたっけ」

 我慢できずに咲は涙をこぼして航志朗の腕にしがみついた。航志朗は咲の手を握りしめて思った。

 (今までぜんぜん気づかなかった。咲さんの手って、こんなに小さかったんだ……)

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