今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 伊藤が医師と若い女を連れてサロンに入って来た。理知的な瞳を持つ高齢の医師だ。航志朗はその医師を知っている。昔からの岸家のかかりつけ医だった。航志朗は子どもの頃にいくどとなくその医師に世話になった。先祖代々医院を営んでいて、確か百に近い歳のはずだ。航志朗はすぐに立ち上がると深々とお辞儀をして医師に言った。

 「谷先生、ごぶさたしております。このたびは夜分遅くに往診をしていただきまして、誠にありがとうございます」

 顔全体に谷は親しみ深いしわを寄せた。

 「航志朗くんだね。ずいぶんとご立派になられて、とても嬉しいよ。周さまや恵真さまや新之助さんも、さぞや草葉の陰からお喜びのことだろうね」

 航志朗は緊張した面持ちで言った。

 「谷先生、妻の安寿が、裏の森のなかにある凍った池に入りまして」

 「うん。秀爾くんから聞いているよ。さっそく診させていただこう」

 谷がグレーのウールジャケットを脱ごうとすると、あわてた様子で若い女が手を出して後ろから手伝った。航志朗がその女を一瞥した。それに気づいた谷が穏やかな口調で説明した。

 「彼女は僕の曾孫だよ。昨年、医大に入ったばかりなんだ。実は、ずいぶん前に僕は引退して息子が医院を継いだんだけど、今、彼は小児科学会に出席するために孫とボルチモアに行っていて留守にしているんだ」

 真剣な表情をした谷の曾孫が航志朗に会釈した。

 腕まくりをした谷は、目を閉じた安寿の脈をとった。そして、手慣れた様子でパジャマのボタンを外すと聴診器をあててから、とんとんと胸をたたいて打診をした。航志朗は胸の鼓動を早めて診察を受けている安寿を見つめた。やがて、谷が口を開いた。

 「うん。医学的にはなんの問題もない。温かくしてゆっくり休ませるんだね。大丈夫、こんなに生気のある顔をしているんだ。じきに目を覚ます」

 谷の曾孫が安寿のパジャマのボタンを手こずりながら留めていった。

 ほっとして肩を落とした航志朗は静かに目を閉じた安寿の顔を見つめた。後ろで咲が伊藤の腕にしがみついた。咲も伊藤も泣いている。

 遠い目をした谷は、何かの光景を頭のなかから目の前に取り出すようにして言った。

 「十何年前だったかな。今日みたいな大雪の日に急に呼び出されて、農大の農地を流れている川に行ったんだ。若い女性が冷たい川に入ったっていう連絡があってね。僕が着いた時には、彼女はもうお亡くなりになっていた。今でも心が痛むよ。よっぽど、つらいことがあったんだろうね……」

 その言葉に伊藤が身体を硬直させたのを見て、咲は顔をしかめた。

 咲と伊藤が谷とその曾孫を見送りに行った。サロンで安寿と二人きりになった航志朗は安寿に毛布を掛けて、安寿の髪をそっとなでた。

 (そうだ。俺が安寿につらい想いをさせて、安寿の心と身体を傷つけた。安寿が目覚めたら、俺は許しを乞う。何度でも、一生をかけて……)

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