今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿はそのことについてしばらく考えていた。なんと安寿が答えるか、航志朗は気が気ではなかった。ゆっくりと安寿はベッドから立ち上がると窓を開けてバルコニーに出た。あわてて航志朗は毛布を抱えて追いかけて、パジャマ姿の安寿を後ろからくるんだ。

 外は明るく晴れ渡っている。安寿は航志朗を見上げて微笑みかけた。それは航志朗の心の奥底を震わせるこのうえなく美しい笑顔だった。

 バルコニーの手すりに積もった雪が解けて、きらめきながらぽたぽたと音を立ててしたたっている。

 安寿は背中に誰かの温かい手を感じた。その感触を心から懐かしく思ったのは一瞬で、前に軽く押されたような気がした。

 その瞬間、真新しい風が安寿に吹いて来た。

 (私、これからずっと航志朗さんと一緒にいる。そう、今、航志朗さんと空の彼方へ飛び立つ時が来たんだ)

 安寿は澄みきった雲ひとつない空をまぶしそうに見上げてから、航志朗をまっすぐに見て言いきった。

 「なんとなくわかりました。では、航志朗さん、これから、私、あなたが行くところに一緒に行きます。飛行機に乗って、世界中のどこへでも!」

 「本当か、安寿!」

 しっかりと安寿はうなずいた。力いっぱい航志朗は安寿を抱きしめた。

 「これから、本当にずっと君と一緒にいられるんだな!」

 感極まって航志朗は叫んだ。まさに天にも昇る気持ちに安寿と航志朗は包まれた。

 航志朗の腕の中でまた安寿は少し考えてから言った。

 「ええと、パスポートを用意するんですよね。顔写真を撮って、……あっ!」

 髪に手を触れた安寿は急に思い出した。

 「私、髪切ったんだ。自分で」

 安寿の短くなった髪をなでながら航志朗が言った。

 「新しいヘアスタイルも君によく似合っているよ。でも、少し毛先をそろえたほうがいいかもな」

 安寿の髪はふぞろいで乱雑になっている。ざんばら髪のおかっぱ頭で毛布に包まれた安寿はどうしても昔話の座敷わらしを連想させる。我慢できずに航志朗はぷっと吹き出した。

 「ご、ごめん、安寿」

 すぐに航志朗は謝ったが、肩を小刻みに震わせている。

 急に真っ赤になった安寿はあわてて毛布をかぶった。

 くぐもった安寿の声が毛布の中から聞こえてきた。

 「どうしよう。こんな髪じゃ、恥ずかしくて美容院にさえも行けない」

 苦笑いしながら航志朗が言った。

 「大丈夫。咲さんに切ってもらうといい。子どもの頃、俺は咲さんに髪を切ってもらっていたんだ。それに、伊藤さんは今も咲さんに髪を切ってもらっているはずだ」

 毛布からひょこっと顔を出して安寿が声をあげた。

 「ええっ! 本当に? 初めて聞きました」

 航志朗は目に涙をにじませて笑いながら、安寿の両肩を握った。

 そして、急に真剣な表情になって航志朗は言った。

 「安寿、暖かい春が来たら、ふたりで結婚式を挙げよう」

 頬を赤らめた安寿は航志朗を見つめてうなずいた。航志朗は安寿をきつく抱きしめて大声をあげた。

 「これから忙しくなるぞ、安寿!」

 そこへ咲と伊藤が二人分のカレーライスをトレイにのせてやって来た。安寿と航志朗は一緒にお腹いっぱい食べた。ふたりを見守りながら咲と伊藤は肩を寄せて微笑み合った。

 その夜も岸家のサロンにある暖炉に火がともった。暖炉の前に座った安寿と航志朗は手をつないで寄り添いながら、赤々と燃えて揺らめく炎を見つめた。
 
 航志朗は離婚届を手にして、安寿の赤く色づいた顔を見つめた。安寿は航志朗の赤みがかった琥珀色の瞳を見てうなずいた。航志朗は暖炉の火に離婚届を()べた。火がついた離婚届は軽い音をたてて、またたく間に黒い灰になって消えていった。

 それを見届けた航志朗は安寿の左手を手に取ると、安寿の左手の薬指に結婚指輪をゆっくりとはめていった。

 黙ったままで安寿と航志朗は互いに見つめあった。

 微笑みを交わしてから、ふたりは唇を重ねた。

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